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たいむかぷせる2

何年か後に見なおして頭を抱えてくなるものたちのあつまり

専攻を語ってください

 誰かが誰かの専攻を語るのを聞くのが好きだ。
 ぼくの周りの大学生は,そろそろ専攻が決まってくる頃なので,よく「そういえばなにをやっていたんだっけ?」という質問をする。そういうとき大抵は目をキラキラと輝かせながら「えっとね…」と話してくれる。そうやって話す相手はものすごく楽しそうだし,そうやって話す相手を見ているのも楽しい。
 ぼくがまだ高校生だった頃,現代文のE先生がよく「大学は学問をするところだ」と言っていた。考えてみれば大学というのは「高等教育機関」であるから,今までの高校生活でやっていた「勉強」とは違った「学問」がそこにはあるんじゃないか。そんな風にも思っていた。
 そしてぼくらは,専攻を決定していく。もちろん大学によってそれはバラバラで,1年次にある程度細かく決める人もいれば,2年次とか3年次にする人もいる。とにかく,学年が上がるにつれて,専攻というのはより細かくなっていく。
 
 でも,なんでぼくは専攻を語られると楽しいのだろう? と少し考えてみた。その質問には意外とすぐ答えが出た。たぶんぼくは「その人の世界の見方がある」と実感するのが好きなんだと思う。たぶん。
 その人が1番好きな見方で,世界を見ていく。そうやって専攻について語られると,なんだか世界が少し違っているように見える。そういうのがきっとものすごく,おもしろいのだろう。
 生きていく中で,ぼくらは色んな常識や経験を身につけていく。そこで色んなものに興味を持ったり,つまらなく思ったりしながら,専攻を決めていく。専攻を決めるという行為には,今までの人生が凝縮されているような気がして,なんだか特別なことのように思える。
 
 しかもそれは,じぶんが選ばなかった道なんだ,ということも意識するとすごくおもしろい。専攻を決めるときにぼくらは,上で書いたように「それが1番おもしろい」と思って決める。だからときどき,その「じぶんが見ている世界」がすべてであったり,もっとも優れている(?)と感じたりする。
 でもだれかに専攻について語られると,そうじゃないんだ,ということに気づける。じぶんが見てきたり,興味を持ってきたりした世界がすべてではないのだということ。世界にはもっと色んな見方があって,世界はもっと広いのだということ。こういうことを意識できる。
 そういうことも同時に,ものすごく好きなのだろう。
 
 というわけで,ぼくは「専攻を語られる」のが好きだ。だれか語ってくれませんか。

ぼくと大人と新幹線と

 小さい頃から,ぼくは新幹線が好きでした。特に好きだったのは住んでいた愛知県を走る東海道新幹線で,幼いときはずっと「のりもの図鑑」や「でんしゃ図鑑」を読んでいました。
 子どもはやっぱり大好きな新幹線に乗ったり,見てみたりしてみたいものです。けれどぼくの家は新幹線の線路からは遠く離れていましたし,母親の実家はぼくの家から車で20分ほど。なかなか乗る機会はありませんでした。
 生まれて初めて新幹線に乗ったときのことは,今も覚えています。家族旅行で関西に行くときのことでした。家族4人で1区間だけ新幹線に乗ったのです。今思うと家族4人で新幹線で移動,というのはかなりの出費だったことでしょう。たしか100系だったかな。
 新幹線が大好きなぼくに見かねて乗せてくれた母親には感謝ですね。
 
 そんな中で,ぼくにとっての新幹線はやはり「特別」であり続けたのです。特別なときにしか,ぼくは新幹線に乗れなかったからです。
 それは常に旅行や大事な移動を含んでいました。あるコンテストの授賞式で,修学旅行で,部活の遠征などなど。愛知県に住むぼくにとって,関西や関東への移動はいつも新幹線でした。
 乗っているときは,それはそれは興奮していたことと思います。無駄に車内をウロウロしたり,普段の電車の2~3倍の速さで移りゆく景色にわくわくしたりしていました。
 
 しかし,そんなに「特別」だった新幹線が,今はそうではなくなってしまいました。あまりにも新幹線が身近になりすぎてしまったからです。
 東京に住むことになったぼくは,愛知に帰省するのにほぼいつも新幹線を利用します。それはほぼ数ヶ月に一度のペースで,乗る列車や区間もいつも同じです。
 新幹線に乗るのにわくわくすることは減っていきました。景色も見ずに寝ること,Macをぽちぽちすることが増えました。
 
 けれどひょっとしたら,それが「成長」とか「大人になる」ということなのかもしれませんね。「特別」だったものが,「特別」ではなくなっていくということ。わくわくしなくなること。
 ぼくがこれから先どんどん年を取っていくにつれて,そういう経験はもっともっと増えていくことでしょう。そしてそれがきっと「人生」というものなのです。
 なるべくならすべてのものに「わくわく」とか「はじめて」を感じていたいんですけどね。どうやらそういうわけにもいかないようです。
 
 ぼくが「特別」だと思っているものが,あの人には「特別」ではない,というのは,ぼくにとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。*1つまりぼくの「特別」があの人にとっては「自然」であるということ。
 忙しそうにPCを開いて新幹線に乗っているビジネスマン,スーツケースを転がしながら新幹線に乗る若者。ぼくはそんなところに「大人」を感じていたのです。
 
 そしてぼくはそんな「大人」に憧れていました。21歳という法律上は「大人」であることを求められる今であっても,ぼくはそういう「大人」に憧れています。
 できることならば,そういう「大人」になりたい。ちょっと恥ずかしくて意識高いけれど,そう思うのです。ときどき新幹線に乗ると見かける,ぼくより若い子供たちにどう見られているのでしょうか。
 そういえばかなり前に見たマクドナルドのチラシでこんなものがありました。
 

f:id:studio_graph:20150507005757j:image

 
 昔見たときはあまり意味がよくわからなかったけれど,今ならなんとなく言いたいことがわかるコピーです。ぼくも「ちっちゃなとき見た」あの大人になれているでしょうか。
 もちろん小さな子どもというのは大人の「いいところ」しか見ませんし想像しません。子どもが思っているよりつらいことはたくさんあります。ぼくの年齢でそうなのですから,もっと年が多い大人ではなおさらでしょう。
 10年後くらいにこの文章を読み返したら,どんなことを思うのでしょう。ちょっとだけ楽しみです。
 
 そんなことを新幹線の中で「シンカンセンスゴクカタイアイス」を食べながら書き始めました。アイスは硬かったけど,美味しかったです。

*1:「あの人たちは、私の知らない楽しみ方を、心から知っている」というのは、私にとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。

わかりやすい,はえらくない?

 少し前に「わかりやすいは1番えらい」といった内容の記事を書いたのですけれど,やっぱりそういうわけでもないかもな,と思うことが最近多いので書きます。
 ぼくはずっと「わかりやすいこと」が好きでした。そしてそれを目指してきました。わかりにくいと伝わらないし,誰も読んでくれないと思っていたからです。
 じぶんの中に何か《伝えたいこと》があって,それを伝えるためになるべく「わかりやすく」する。ぼくにとって書くことやコミュニケーションはそういうものなのかなあ,なんて思っていました。

 でも《わかりやすい》は1番えらいわけではない。最近は本当にそう思うのです。《わかりやすい》はひょっとしたらつまらないかもしれない。そうも思うのです。
 「わかりやすい」はしばしば《具体的》であることと言い換えられます。《具体的》であれば,なるべく多くの人が簡単に理解できます。容易にイメージできるからですね。
 一方で《具体的》の対照的な言葉である《抽象的》はしばしば「わかりにくい」ものだとされてしまう。簡単にはイメージできないし,じっくりと噛み締めないとわからないからです。

 そして人間は「わかりにくい」ものや「わからない」ものが嫌いです。なぜならそれは「怖い」に直結してしまうからです。未来のことが「わからない」から「怖い」のかもしれません。お化けが怖い人も,お化けが「わからない」から「怖い」のかもしれません。
 でもそうやって「わかりにくい」から逃げ続けていてもあんまりよくないのかな,とも思うのです。「わかりにくい」にしっかりと向き合うこと。これはものすごく大事なことだと思うのです。

 そんなことを「あみめでぃあ*1」を書くうちに思い始めるようになりました。
 くわしくは上の段落内でのリンクを見てくれると嬉しいのですが「あみめでぃあ」のテーマは「《概念》を語る」ということです。
《概念》というのはそれこそ《抽象的》であって,かなり「わかりにくい」ものでした。

 ぼくもなんとか《概念》を書いてみたのですが,すごく難しかった。考えて考えて悩んで,でもそれでも向き合って,なんとか書けたくらいのものです。
 あんまり自覚はしていなかったけれど,今は「ぼくは「わかりにくい」《抽象的》から逃げていたのかな」と思います。普段から色んなことを考えているつもりだったけれど,本当は考えていなかったのかもしれません。ものごとに対して「これはどういうことなのか」とか《本質》をとらえることから,逃げていたのかもしれません。

 「あみめでぃあ」の編集長のらららぎさんが,ぼくの書く文章について以下のように言ってくれました。

確かにぐらふくんの文章は具体に富んでて分かりやすいので、具体における分かりやすさ(速効性=ラノベ的•はてなブログ的)の他に、抽象における分かりやすさ(遅効性=詩的•思索的)の使い分けもできるようになれば、より一層面白い文章が書けるようになると思いますよ。

 これを言われた当初は「そんなことないだろう」と思っていました。けれどしばらくした今,たぶんそういうことなんだろうな,と思うのです。
 「『わかりやすい』はえらい」というのは確かにそうなのですが,ぼくが求め身につけてきたのは即効性をもつ「わかりやすさ」だったのでしょう。

 思えばぼくはずっと「わかりにくい」ものと戦ってきました。身近な例を挙げるとすればそれは数学です。数学というのは「数」という概念を扱う学問です。
 概念を扱えるようになるのはものすごく難しいです。それは《抽象的》であって「わかりにくい」ものです。
 けれどしっかり向き合い,訓練を重ねながら*2ぼくらは《概念》を獲得していくのです。はじめは「学校でやれと言われているから」とか「なんとなくおもしろそうな気がするから」とかそんなものかもしれません。けれど,ひとたび「概念を身につけた」あと,ぼくらの世界は広がっていたはずです。世界の見え方は少し,変わっていたはずです。

 そんなことを「あみめでぃあ」に参加するうちに思うようになりました。《概念》や《抽象的》であることからは,きっと逃げてはならないのです。
 もちろんそれが「よりよく生きるため」に必要であるから,ということもできるのですがそればかりではありません。《概念》や《抽象的》であるということは,ぼくらの世界を広げてくれるのです。そしてきっとそれは,ものすごく楽しい。
 「あみめでぃあ」に参加することで,今までずっと向き合ってきた「書く」ということにも,ある種のブレイクスルーが生まれたように思います。

 そして「あみめでぃあ」に参加する人たちは,本当の本当に「おもしろい」人たちばかりです。編集のちくわさん,らららぎさんをはじめとする人たちと,らららぎさんのシェアハウス「ヌーベル」で語り合うひとときは,本当に素晴らしいものです。
 あの空間に行くたびに,ブログ記事が1つ書き上がるような気さえするのです。

 そんなこんなで「書く」とか「文章」のことばかり書いてきたこのブログですが,こんどぼくの書いたものが実際に紙の本となって形になります。宣伝というわけではないですが,ぜひお手にとっていただけますように。
 ぼくが「わかりにくい」ものに向きあおうと思えたように,あなたの「わかりにくい」ものに向き合うための手がかりが,ひょっとしたら転がっているかもしれません。

chiasma.bangofan.com

今度の5/4にある文学フリマで販売します。実際に文フリ会場までお越しいただいても,通販フォームに入力いただいてもいいですよ。

*1:参加している「みんなでしんがり思索隊」という共同ブログの方々でこんど出すゆるふわ評論系同人誌。くわしくはリンク先のWebサイトをご覧ください。

*2:いわゆる演習というやつをくり返すことでしょうか。講義を聞くだけではわからない《概念》を頭の中に叩きこむことができます。

さらっとしたことを,さらっと書きたくて。

 ぼくがブログという形で文章を書き始めてから,今年で7年になります。今あるブログは,記憶が正しければ3つめのブログです。それまでのブログには,思い出すとものすごく恥ずかしいことを書いてきました。「科学を使ってわかる日常の疑問」とか「社会情勢に対して思うこと」とか,はては「日常に起こったこと」とか,あらためて考えてみても「だれが見て楽しいと思うんだろう」と思えるものばかりです。
 今も昔も《書く》とか《ブログ》とかいうことについてはよく考えてしまいます。「書く」ということはぼくの生活の中で少しずつ変わってくるものでした。ここらへんで「書く」ということを考えなおしてもいい頃だろうと思って,この文章を書きます。

 書こう書こうと思って書けなかったこと,っていうのがぼくの生活には多く存在します。なにか日常にものすごい印象的なことがあって,これは文章で残しておかねばならない,と思うことが「書こう書こうと思ったこと」だといえます。でも,なぜだか書けない。そういうよくわからないスパイラルにがんじがらめになってしまいます。
 書こう書こうと思った《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損ないたくない,そう思ってあれこれ書くのです。基本的に《日常でものすごい印象的なこと》っていうのはぼくにとって《わからないことがわかるようになった》であることが多いです。じぶんがわからなかったことがわかるようになって,世界がぱあっと晴れる感じ,といえるでしょうか。

 でも《わからないこと》が《わかること》になるというプロセスは,他人に伝えるのがすごく難しいことです。それもそうですよね,だって今まで「わからなかった」んですから。
 だから,文章を書くときにものすごい数の「準備」をしてしまうのです。メモを取ったり,何度も書きなおしたり,一晩置いてみたり,えとせとら。先に書いたように,これはすべて《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損なわずに伝えるためです。でもそれが果たして,なるべく損なわずに伝えるために有効な手段となっているか?ということも,最近はとても思うのです。
  色々と「どう伝えようか」考えているうちに,そのときの「印象」は薄れていきます。それに伴って,伝えるための趣向を凝らす,という努力がめんどくさくなる。そして最後には,本当にそれが「印象的」であったのか疑わしくなる。そんなプロセスが,どうしてもやってきてしまうのです。
  そんなこんなで,ぼくはずっとなにも書けない,という状態が続いてきてしまいました。

 でも世の中には,ある程度の「文章をさらっと書く」人が存在するのです。ぼくはそれが昔から,ものすごくうらやましかった。じぶんはこんなに悩んで苦しんでいる文章を,なぜあんなにも「さらっと」書けてしまうのだろう,と。
 年末と年始にかけて,何人かの《文章を書く人》に会ってきました。会うたびに「こうなりたいなあ」と思う像はどんどん増えていきました。
 もちろんぼくが表面的な部分しか見ていないというのはじゅうぶんにあり得ます。「そう見える」だけで,その人も実はものすごく「悩んで」そして「苦しんで」文章を書いていたのかもしれません。
 でもぼくはやっぱり「さらっと」書きたいのでした。

  そうやって「どう文章と向き合うか」ということを考えていたときに出会ったのが,ちくわさんのAskでした。

だいたい公開した翌朝に後悔するものの、長い目で見て書かなきゃ良かったと思うことってあんまりないので、とりあえず続けているといったところです。
ーーーどうしてブログを続けているのだと思いますか? | ask.fm/chikuwa_


 これを見た瞬間にぼくは「これだ!」と思ったのでした。こんなにも苦しんで悩んで何かを書くけれど,不思議と「書かなきゃ良かった」と思うことはあんまりない。これに尽きます。
 わかりやすかったり,誰かに読まれたり,知識を得られたり,といった文章をめざすべきなのではないか,と思っていた時期もありました。でも「書かなきゃよかった」と思わない《じぶん》のために,文章を書くのもいいのかな,とも思えるようになりました。

 「なぜ書くのか」とか「どうやって書くのか」というのに,なんらかの答えを出せるようになるには,きっと「書き続ける」しかないのでしょう。なぜだか不思議と「書きたくなく」はならないですからね。
 幸いにも一定数の人たちには読んでもらえているようで,うれしい限りです。どうやらぼくが生きているかぎり,このようなブログは続きそうですから,ぜひお付き合いくださいな。

  ひさしぶりに「さらっとしたこと」を「さらっと」書こうと思いましたが,どうやら失敗してしまいました。相変わらず分量はものすごく増えていきます。うーん,試験前にこんなことをしている場合ではないんだけどなあ。

あなたにとって「大晦日」は特別ですか。

     年末のこの時期になると,ぼくはいつもわくわくしていました。特に年末の「大晦日」という日はぼくにとっては特別な日だったのです。
     それは家族にとってもそうでした。わが家では,ぼくが小さい頃は「カップラーメンを食べること」や「日付をまたいでも起きていること」は禁止されていました。でも大晦日ならば,それは許されていたのです。
     小さい頃のぼくは,それはもうわくわくしていました。大晦日だからこそ今までやったことのない「徹夜」をしてやろうかとか,どんな味がするかずっと気になっていた「カップラーメン」を食べてやろうかとか,もうわくわくの宝庫だったのです。それはいつも暮らしていて見慣れているはずの「わが家」の景色を,何度も変えてくれるものであったのでした。
     そうやってぼくはずっと「大晦日」を楽しみにしていたのです。
 
     でも今年はあまりそうではありませんでした。タイムラインで見た人の言葉を借りるならば「もっとも『大晦日感』がない大晦日である」といったところでしょうか。というのも今年は18時ころまで名古屋で高校のときの友人と遊んでいたからです。思えば今までの大晦日はずっと家にいて,外出したことはあまりありませんでした。
     大晦日の名古屋は,ちっとも特別ではありませんでした。いつも通りたくさんの人がいるし,お店もいつも通りでした。たしかにざわついてはいるけれど,なんだか「特別」感がない。そういう風に感じてしまったのです。
     家を出たのが11時前でしたから,(起床している)12月31日の半分くらいを「特別でない」大晦日として過ごしてしまったことになります。
 
     でもその「特別でない」大晦日は,自宅に帰ってきたとたん,終了したのです。
     ぼくの家はやっぱり「特別」な「大晦日」が行われていました。おそばを食べて,紅白歌合戦を見ていました。これは毎年ぼくの家で行われることです。
     でももう1つ「特別」な「大晦日」を演出してくれるものがありました。そう,Twitterです。
     ぼくがTwitterを始めてから,2014/12/25で5周年アニバーサリーとなりました。これで6年目になります。ぼくは毎年の「Twitterでの大晦日」も大好きなのでした。みんなが実況して,いつもより流速*1が速くて,わいわいがやがやしています。そして年が変わるまさにそのときにみんなで「あけおめ!」とかtweetします。
 
     そうやって「みんなで」「特別な」「大晦日」を演出していくというのがぼくは大好きです。テクノロジーってすごいなとか,やっぱり人と人とをつなげてくれるんだな,とかなんだか楽しくなります。味気なく単調な日常の連続に,ときどき「特別」が訪れないと,人間はきっとうまくやっていけないようにできているのです。ぼくはやっぱりわいわいがやがやしているTwitterが大好きです。
 
     今年もTwitterがたくさんの経験や出会いをくれました。もちろんこのブログもそうです。今回は久しぶりにメモを書かずに記事を書いたので,色々とシッチャカメッチャカになっていますがご容赦ください。そういえばまた「しんがり」にも記事が追加されたので,よければお読みくださいね。
 
     あなたにとって「大晦日」は特別でしたか。
     よいお年を。
 

*1:時間あたりのtweet数のこと

ぼくと「しんがり」のこと

     だいたい半年くらい前から「みんなでしんがり思索隊」という共同ブログで文章を書かせてもらっています。ちょこちょことこのブログにもリンク付きで紹介していたので,わかる人はわかるかもしれませんね。とあるtweetによって,しんがり思索隊(以下しんがり思索隊と略します)について書くことになったので,ここにこうして書くことにします。
     「しんがり」ではどういうことをしているのか,どういうことを目指して作られたものなのか,ということを知りたい人はこのご案内の記事を読んでいただければ大体わかると思います。まあでも少し書いておきましょう。
     ここではたくさんの人が「きあずま」と呼ばれるお題に合わせて文章を書いています。「きあずま」を投げかけることもあります。そうしてみんなで文章をより集めてひとつの「ブログ」をつくっていくのです。
 
     「しんがり」が開設されたのは,今年の6月のことです。
     どういうやりとりがあったのか,詳しくは忘れてしまったのですが,ちくわさんという運営者の1人に声をかけてもらったのが始まりだったと記憶しています。彼とはぼくのTwitter黎明期からずっと仲良くしてもらっていて,お互いにブログで文章を綴っていることは知っていました。
     ひとりよがりに文章を書くのもいいけれど,みんなで文章を書いていくのもおもしろいかもしれないなあ… といった,割と感覚的ななにかに引き寄せられて,ぼくは「しんがり」に参加しました。
 

 
     はじめて「しんがり」を見たときから,そして今少しずつ拡大していった「しんがり」を見てぼくが抱く印象はあまり変わっていません。それは
 
じぶんと似た人がたくさんいる
 
というものでした。お前なんかと一緒にするな!というしんがりライターのみなさんがいたらごめんなさい。
     ぼくはじぶんが思ったこと,感じたこと,考えたことを文章に綴ってきました。そしてそれを「ブログ」という形で公開していきます。でも,そういうことをやっている人は周りにあまりいませんでした。
     ひとりよがりにじぶんが悩んで考えて感じたことを文章で書いて公開する。果たしてそれは正しいことなのかな?と思っていた矢先のことだったのです。
 
     それで出会った「しんがり」はぼくにとって救いのようなものでした。「こういう生き方をしていてもいいんだよ」と実感させてくれたような気がします。生きるのに悩んで,苦しんで,でもそれを文章にして,それで生きていく。そういう生き方はあってもいいんだよ,と言ってもらえたような気がします。
 

 
     「しんがり」について思っていることをもう1つ。ぼくは「しんがり」は
 
現状のインターネット文化に対するレジスタンス
 
の1つであるかのように思っています。
     最近のインターネットの風潮は「誰にでも理解できる」ものであり「短時間でわかってもらえる」ものが多いように,ぼくには見えます。さいきん話題のいわゆる「YouTuber」と呼ばれる人たちの動画や,有名なブロガーさんたちのブログはそんな感じです。
     一時期このブログの方向性を見失っていたときに読んだ「ブログ論」のようなものにも「まず見る人のことを考えろ」とか「おもしろいと思ったもので毎日更新しろ」とか書いてありました。
     でもぼくはそういう形のインターネットは「見る人にへつらいすぎている」と思うのです。インパクトやおもしろさを狙うあまり,悪く言ってしまえば「低俗なもの」が増えているように思えるのです。それは僕がブログやインターネットでやりたいこととは,少し違ってしまっている。
     Twitterという最大140字しか入力できないツールで日常的にコミュニケーションをすることに慣れてしまった人たちに「長い文章」はなかなか読んでもらえません。結果的に改行が多かったり,全体としての量が少なめな文章になります。
 
     でも「しんがり」は違います。たくさんの人がひとまとまりの長い文章を使って,なにかを表現しています。ぼくらのブログは,通勤や通学の間といった「スキマ時間」にひょいひょいっと「見て」もらうものではなく,しっかりと画面と向き合って,しっかりと「読んで」もらうものであると思っているのです。この広いインターネットの世界に,こういう場所が1つくらいはあっていいはずです。
 

 
     同時に「しんがり」は僕にとって,
 
人と人を「つなげて」くれるもの
 
でもあります。
     このブログがそうではないという意味では決してないのですが,しんがりでは自分と似たような人に「読んでもらえる」可能性がすごく高いのです。しかも,同じような内容に関して「書いてもらう」こともできるのです。
     誰が読んでいるかわからないこういう個人ブログでは,どうしても書き手であるぼくと,読み手であるみなさんの距離が遠く思えてしまいます。コメントをくれる人もあまりいませんしね。コメントくださいと言っているわけでもないんですけど。
 
     インターネットは双方向性をもったコミュニケーション手段です。できれば一方通行ではなくて,双方向のコミュニケーションがしたいものです。そういう意味でも「しんがり」はぼくにとってものすごく居心地のいい場所の1つであるのです。そうやって確実に人と人を「つなげて」くれるのです。
 
     また「しんがり」は,ある「きあずま」について,ある人が心を尽くして綴ったものです。心を尽くして綴ったものはもちろん,その人の心の深い部分を少なからずあらわしています。
     その人とは会ったことも話したことも,顔を見たこともないのに,その人の心の深い部分を知っている。そういう関係性はなんだか不思議で,なんともいえずぞくぞくします。かなり前にインターネットがせまくなってしまったと書きましたが,ぜんぜんそんなことはないのかもしれませんね。
     インターネットを使った「しんがり」は通常のコミュニケーションと違った方法で,まだまだ僕たちを「つなげて」くれているみたいです。
 
     もちろん,
 
ものごとを「違う視点から」とらえる
 
こともできますよね。
     色んな人の色んな文章で,色んな考え方を知るのはとても楽しいことです。「こういう生き方をしてきた人がいるんだなあ」とか「こういう考え方もあるんだなあ」と知ることは,なぜだかハッキリとはわからなくても,すごく楽しいことなのです。
 

 
     そんなこんなで「しんがり」について書いていったら予想外に分量が増えてしまいました。実際にはお題1つと記事2つという,なんとも情けない参加率なのであまりえらそうなことは言えないのですが。僕が「しんがり」で書いた記事はここから見ることができます。
     最近またしんがりライターの方が増えてきて,どんどんにぎやかになってきました。この素晴らしい場所を続けていくために,僕もたくさん考えて,たくさん書いてみようと思っています。
     「しんがり」に書かれているような内容で実際の書籍をつくり,文フリで販売するという「あみめでぃあ」企画もスタートし,無事に初刊を発行できたようですし。次号から僕も執筆する(予定な)ので良ければお手にとってみてください。
     「自分には書けない」と思っていても,書き始めると案外すいすい書けるものです。やっぱり僕にとって「書く」ことは「考える」ことであり,生きるために必要なことなのです。
     もし「自分もしんがりで書いてみたいぞ」と言う人がいたら僕かちくわさんか誰かにひとこと声をかけてみてください。
 
     書いてみよう,それは案外,いいことだ。

実験のアルバイトをした話

     木曜日は疲れたじぶんを癒やすために全休にしています。でも割と毎週水曜日にぐだぐだと夜更かしをして昼ごろに起き,特に何も生産性のないまま貴重な休みは失われていきます。
     休みなんだからぐだぐだと消費して休んじゃえばいいじゃないか,とも思います。でもやっぱり何をするにもお金はかかります。こうして堕落しているとあとで何らかの痛い目を見そうなので,ちょっとばかり働いて活動資金の足しにしようと思い,単発のアルバイトをすることにしました。
     うちの大学は少しおもしろいシステムがあります。大学の学生用のWebページに「学内のアルバイト」という項目があって,学生向けにアルバイトを紹介してくれるのです。その中に「1日で終了する」といったものがあり,今回のアルバイトはそこに掲載されていたものでした。
     そのうちのほとんどは「研究や調査に使用するための実験の被験者」というものです。ほぼすべてのものが学部が正式に行う実験なので怪しいといったこともありません。今回行ったものは経済学に関するもので,実際にコンピュータで完全に匿名が保たれた参加者間の取引(ゲーム形式ですね)をするというものでした。そのゲームの結果に応じて報酬が変動します。
     この実験はこれからも継続して行われるそうなので,詳細がわかってしまうようなこと(いわゆるネタバレ)は避けなければなりません。でもかなりおもしろかったので,なんとか隠しつつおもしろさが伝わるように書ければいいなと思います。

     (わかる人がどれくらいいるか不明ですが)一言で言ってしまうと「ライアーゲームをしてお金を稼ぐ」というものです。経済学の実験とはいっても,やることはギャンブルに似ています。元手はなく,必ずプラス収支で帰ることができますが。
     ギャンブルかつ,参加者間の取引がありますから,しっかり考えないと負けてしまいます。なるべく負けたくありませんから,なんとか相手をあざむいたり,裏をかいたり,先を読んだりして自分の利益の最大化につとめていきますよね。
     この手のゲームは「お互いが信用しあっていれば最も(あるいはある程度は)利益を得ることができる」というものがほとんどです。
     でも頭ではわかっていても実際にやるのは難しいな,ということを実感する1日でした。「みんなが同じくらいしあわせ」がきっと理想的な姿であるはずなのにもかかわらず,です。ゼロサムゲーム*1ではないため,誰かが得をして誰かが損をすることもあり得ないのに。
     もちろんそうなる努力はしました。でも「これでいい感じのところに落ち着いたかな?」と思っても誰かが結局「自分だけが儲ける」という張り方をしてしまいます。結局のところこれが人間というものであり,色々な取引の難しさなのかなあ,なんてことを思いました。
     結果的に僕は時給に換算するとそこそこの金額を得ることができましたが,果たしてコレでいいのかなあとも思います。もちろんお金をたくさんもらえれば嬉しいのです。でも匿名同士でやりとりして,騙したり騙されたりして,お金がもらえてラッキーというのはやはり少し気持ちが悪い感じもしてしまいました。

     実は今日はもう1つ単発のアルバイトをしました。それについても少しばかり書いておくことにいたしましょう。これは別にそんなにおもしろいことがあるわけではないのですが。

     もう1つのアルバイトは「英語の教材をつくる参考にする」ためのアルバイトでした。僕は英語が好きですし,英語で話したり読んだりするだけでお金がもらえるならいいかな,と思って軽い気持ちで応募しました。
     実際に指定された集合場所に行くと,なにやらスタジオのようなところに通されました。マイクとPCとタブレットだけが置いてあってびっくりです。
     どうやら「タブレットに指示されたことを喋ったり書いたりする」というもののようです。はじめにSpeaking,そのあとWritingという感じで進みます。
     1つめのセクションでは,宮沢賢治の「北風と太陽」や「オオカミ少年」といった文章の日本語のもの,英訳されたものを交互に読まされました。係員の人がスタジオに出たり入ったりして合図を与えてくれ,その通りに読んでいきます。
     1つめのセクションはただ読むだけですからそれほど苦労はなかったのですが,問題はそれ以降でした。タブレットに表示される絵を説明したり,自分の意見を述べたりするものだったのです。
     「ただ書かれているものを読む」のと「考えながら読む」ことは大きく違います。言葉では言いにくいこと,うまい表現が出てこないこと,自分のちょっとしたミスに気づくこと,などなど色々ありました。というか恥ずかしかった。これに尽きますね。
     最後は制限時間15分でお題に合わせて英語で書くことを要求されました。意見を述べる,というものでこれがなかなかつらかったです。こういうものを書いていると某大学の自由英作文を思い出しましたがまさにそんな感じです。書いているうちに整合性が取れなくなって大変でした。
     でもまあ,いい経験にはなったかなと思います。とても楽しかった。


     今回はいつもと違い,日記のように書いてみました。いつもはまずなんらかの「言いたいこと」を用意して,それに合わせるために色々な話をつくっていきます。
     でも今回はあったことをただだらだらと綴るだけでした。書き手にとってはものすごく書きやすくて楽なのですが,読む人にとってはおもしろいものができているかどうかかなり不安でもあります。
     「あなたに興味がある人は実はとても少ない」ということはどこかでだれかが述べていたことです。それはきっとそうで,僕の日常に興味がある人なんてほとんどいないことでしょう。
     「自分のためにブログを書く」のか「読んでくれる人のためにブログを書く」のかどうなのか。ということにきっと僕は永遠に悩み続けることになるでしょう。もちろんコレにはまだ答えは出ていませんが,今回は割と「自分のため」に文章を書いたつもりです。後から読んだときに「ああ,こんなこともあったなあ」と感じるためのなにか,という感じ。
     最近はいろいろとつらいことも多いですが,文章を書くことで少しだけすっきりしたようにも思えます。

     今回の実験で僕が生み出したデータが,さまざまな形で世の中の役に立っていたらいいなあ,なんて思いました。

*1:ゲームの理論で,参加者それぞれの選択する行動が何であれ,各参加者の得失点の総和がゼロになるゲーム。零和ゲーム。