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たいむかぷせる2

何年か後に見なおして頭を抱えてくなるものたちのあつまり

言い訳

お久しぶり,になるんでしょうね.
また唐突にTLからいなくなってみたのですが,誰か気づいてくれているでしょうか.心配(?)してくれている人はまあ,いないとは思いますがもし存在するのならすいません,毎度のことながら意味はないのであって,本当にすいません,それしか言えないですね.
今までの傾向ならば,何ヶ月おきかに『よしTLから姿でも消してみるか』とかいう思いつかなくていいことを思いつき,その結果しばらくいなくなるものの,『なぜ姿を消したくなったのか』という問いに答えが出ることはないまままた寂しくなりTLに戻って適当に喜ばれて,そのままずるずる,という形になることが予想されますが今回はどうやら違うようです.もちろん予備校が始まって予習復習がそれなりに忙しくなったというのも理由のひとつではあるのですがそれはそれで面白くも何ともないのでここはひとつ,またできもしない自己分析をしながら何か書いてみようと思うのです.

Twitterというのは非常に頭から頭へ伝わる速度が非常に速いコミュニケーションツールです.頭から頭へ伝わるという表現は今さっき僕が作った表現ですので何だそれと思った人は僕の基準では正常な思考の持ち主です.頭と頭,では少し分かりにくいので最初の頭を頭1,次の頭を頭2とします.大体予想はついていることかと思いますが頭1は僕の頭,頭2はあなたの頭ですね.頭頭と書き続け,頭という文字がゲシュタルト崩壊してきたところで別に分ける意味もなかったなということに気づきました,すいません.Twitterは考えたこと,思いついたことを気の向くままたったかたーと打ち込んで送信ボタンないしキーを叩けばすぐにあなたの頭に届く,極めて高速なコミュニケーションツールです.
会話ではない言語のかたち,すなわち文字ですね,を用いたコミュニケーションは,多分時代と共に進化してきました.大まかに思いつくものを挙げれば,手紙,電子メール,そしてTwitterでしょうか.もちろん,この分け方はかなり曖昧ですので,まだまだ僕が知らないだけでたくさんありましょう.(ここでは1対1のコミュニケーションのみ考えます,1対多数まで考えると非常に煩雑になりますし,考えだしたらきっと面白いものになるとも思われるからです,また暇だったら書きます.)
僕はこういう考え方をします.時代がより現代に近づくにつれて,頭1と頭2の時間的なタイムラグ,概念としての損失が小さくなるのではないか,と.頭の中で思いついたことが,ほとんどオリジナルのままもう1人のまま届くようになってきたということですね.Twitterはもはや会話にも迫る勢いであるかもしれません.それは報道を含め早さが時には正確さを超えて優先される場合には有効だろうと思うのですが果たして1対1のコミュニケーションの場合にはどうなんだろうということを思って今,こういう文章を書くわけです.
僕が手紙というものは校外活動のお礼状というフォーマルなものしか書いたことがなく,プライベートなやり取りとしての手紙は書いたことがないということを先に断っておきます.だからこの先の考察にはそれほど明確な根拠がありません.たとえば,僕が誰かに手紙を書こうと思いついたとして(面白いので気になる異性とでもしておきましょう)大体文字数は何文字くらいになるのか,と少し考えてみます.んー,それなりの量をそれなりの文字数と大きさで書いて,漠然と想像すると用紙4枚くらいでしょうか,少なくともTwitterでの1tweet分(140文字ですか)よりは多いでしょうね.それに加えて,Twitterと違って相手に届くのも,相手からのレスポンスも驚くほど低速です.Twitterなら数分,早くて数十秒のところを数日は待たなきゃいけない,下手なことは書けませんね,きちんと推敲して不適切と思われる表現を避けなきゃいけません.でも遅さは悪いことだけではありません,なにしろ文字数に制限はなく書こうと思えば無限大まで文字を書くことができますから.つまり表現を補足することもできるわけですね,『好きだよ』に加えて,ポゥエム的なものも追加できます.あともう1つ大事な要素があります.当たり前のことですが,文章がまとまって届くことですね.1ページ目よりも3ページ目が先に届くことはない,普通はまとめて封筒に入れますもんね.
じゃまあ手紙の特徴を挙げるのはこれくらいにしておいて,今度はTwitterと比べてみます.
別に僕はここで『Twitterというのはこうこうこうして手紙と比べて悪いものであるから,みんな,この文章を読んでちょっと考えてね!』と回顧談を持ち出してあれやこれやと主張しているわけではありません.(というか多分僕は時代に染まった現代人,であるはずですし)そんなのは権威ある評論家や物事を達観視する世捨て人の仕事であり,Twitterという環境を自らの理想郷(失笑)に変えるために何もせず,何もしないばかりか一時的に逃げ出したやつの意見なんて誰も聞きません.
そもそもこの記事のタイトルは『言い訳』ではないですか(実は忘れていた),読んでくれるだけでも僕は十分に満足で,『まあそういうこともあるよなー知らんけど』と思ってくれる方が1人でもいたら大満足なわけです,こういうことを書いて,ちょっとだけ自分の言い訳が面白くなればいいかなくらいしか考えていないんです.
それじゃ,ま,始めます.
まずはじめに,若干のシステム的な部分も交えながらTwitterの文字数の話をします.
ご存知のとおり,Twitterは1tweetは140文字以内ですね,これが手軽でもあり,面倒でもあることです.140字が多いと思うか少ないと思うかはもちろん人それぞれだとは思うんですが,何か伝えたいことを完全に伝えるには多分,あんまり多くないと思います,もちろん完全に伝えるためには何文字必要かも分からないのですが.他人とreplyで会話するならいくつも続くし,相手の顔色もなんとなく回線上から読み取ることでおそらくそれほど問題はないのですが,問題は通常のtweetですね.140字で上手いこと起承転結させるのは難しいと言わざるを得ないため,伝いたい概念のようなものが複数のtweetに渡るのはよくあることです.しかし,書いた本人が意識していようがしていまいが,人間というのは法則性を見つけ出したい生き物であるがためにいわゆる"文脈"を読んでしまったり,読まれたりしまうのが僕には結構困るんです.それが今回Twitterをちょっと休んでみた原因の1つであるんです.もちろん上手く言語化できない部分もあって,難しくはありながらも何とか書いてみるんですが.多分そんなとこです.手紙は相手が限られているので見せたくない自分を隠すこともできるのですが,Twitterではそうはいきません.@がついていないtweetは誰宛でもないのだということが分かっていながらも,誰宛なんだろうかと推測されてしまうし,推測してしまう自分がいる.そういうことに疲れてしまったのかもしれません.発信した言語,まあ自分自身の情報が多すぎるがゆえに法則を見出そうとしてしまって,それがとても疲れる…今はそんな状態なんだと思われます.
僕がTwitterをはじめた理由を今,曖昧に考えるとすれば多分「さみしかったから」になると思うんですが,僕という人間は本当に贅沢ですね.今では「反応が疲れる」という状態になってしまっているのかもしれません.もちろん,自分のtweetに対して反応してくれるのはすごく嬉しいことであるし,気になる人が自分のことについてtweetしているのを見るのもすごく嬉しいことではあるんです.でも,その嬉しさが嬉しすぎて,何気ないtweetにもそういうものを見出してしまう,そんな自分がつくづく厭になるんですね.別に特定のユーザーが嫌だとか気に入らないとかではなく,ただの自己嫌悪なんです.割と長い間Twitterに住み着いているというのもあって,初めの方はいわゆる『自己承認欲tweet』をしてしまったり,承認して欲しいんだろうなと思われる人に適当に反応していることもありましたが,多分今は違うんですね.そういうのを見るといらいらしてしまうし,そういうのをしたいなーとかある程度の周期で思ってしまう自分,本当に厭になります.
考えてみれば,おそらくtwitterはかなり多くのカテゴリの人間が集まるコミュニティです.芸能人や知識人から,僕みたいな民間人まで,本当に様々な人がいます.その中で,自分が興味ある,とか,自分に似ている,とかいう人を上手いこと探していって楽しむというものであるのですが,そこに個人を明確に区別してしまいはじめたのが最近です.まことに失礼な話ではあるのですが,今までの僕はおそらく,「自分に対して反応してくれるその他大勢」という見方でしかtwitterにいる人のことを見られなかったのだろうと思われます.とりあえず自分に反応してくれて,適当に寂しさを減らしてくれる人々,そんな風にしか見られなかったのだろうと思います,本当に心の冷たい人間ではあるのですが.どうなんでしょう.
それが変わったのが最近でしたね.やっぱり,本当に好き(恋愛的な意味ではなく人間性そのもの)な人ともっとコミュニケーションをしたい,そんな感じです.もちろん,反応してくれる人は全員邪魔かと言われたらそうではないし,むしろそうでも無かった人がそういうカテゴリに入ることもあるのであって,なんという贅沢な人間なのかということですね.きっとこういうツールがない時代であったのなら,相手のことを知ることが出来なさすぎて色々と悩んだのだろうと思われますが,むしろ知りすぎてしまうから悩む,そういう面倒なことになってしまっているんですね.新しく出会った人に自分の中で「この人はこういう人だろう」というイメージを構築することで人間関係は始まっていくのだと思うんですが,どこかでそういうイメージとはずれていきます.現実世界であればちょっと距離を置くとか,別な方法をためすとか,時間が解決してくれるとか,そういう選択肢もありますが,多くの場合,twitterでつながっている人はtwitterでしか繋がっていないわけですね.だから,こいつ嫌いだからちょっと放置してみるか,じゃ済まないわけです.ほとんどの人はリムーブすればそれでもうおしまいなので,現実世界みたいな白が黒に変わったり,黒が白に変わったりすることはほとんど無いんです.別れたらそれで終わり,それが手軽かつ,すごく怖いことであるんですよね.
平安時代などのまだ人間が和歌でコミュニケーションしていた時代は乏しい古典常識を引っ張りだしてみると,確か男女が顔を合わせるということがほとんどなく,和歌での文章一本勝負で意中の相手の気を惹かせるとかそういうことをしていたはずです.twitterでも実際に僕と会った人や,実際に僕と会っていた人は別として,ほとんどの人がTwitterでの文章のみで僕という人間がどういうやつなのかということを判断していることでしょう.面白いですね,1000年も前のコミュニケーションの形が最新技術でも行われているのです.そこで困るのがやっぱり,どれが本当の自分なのかということでしょうね.僕は自分で,現実世界での人格とtwitterを含むインターネット上での人格を変えようと意識していて,現実世界で僕と関係がある人の何人かは「ぜんぜん違う」と言います.どちらが本当の自分なのか僕には分かりませんが,ひとつ怖いのは,相手がどちらの僕を本当の僕なのかと判断するのかということです.まあこんなことはtwitterだけに限らず,コミュニケーションが存在するところではおそらくいつも起こることであるとは思うのですが,現実時代で思ったことをどんどん言ってしまうのとは違って若干ながら考えてtweetする時間が与えられるので,現実世界と違う自分を演じようと思えば演じることができます.
なんとなく気に入った人とは,twitter上だけでのコミュニケーションにとどまらず,実際に会ってみたいと思ってしまいます.実際に会って話をしたらさぞかし楽しいことだろうと思います.いや僕が勝手に思っているだけなのかもしれませんが.

このまま書き続けたら書き続けられないこともないんですが,そろそろ疲れてきたのと,そろそろ同じ話がループしてしまうだろうということからそろそろ終わりにします.書き始めたときは,自分がtwitterをやめた理由が書いていく途中で自ずと見えてきて,ちゃんとした論理展開がある文章が完成するのだろうと思っていたのですが,いざ書いてみると全然違いますね.とりあえず頭に浮かんだ文章をたかたかとキーボードで打つだけですので,しっかりとしたメモも作っていないし,流れにまかせて流れのまま打つというだけなのですが,なんとも面白くないものができあがってしまいました.こんなのは子供の戯言ですね,いや本当.結局はコミュニケーションしたい人とコミュニケーションできない欲求不満から逃げているだけのような気はします.ぼんやりと思っていたのが,twitterするのもつかれたし,これからは今回のような長文をブログに書いてtwitterに投稿して,なんかよく分からない感じで生きていこうと思いましたが,これも不思議なもので,今となってはブログを書くのに疲れて,やっぱりtwitterに戻りたいとかいう思考も浮上してきました.なんて面倒な人間なんだろう自分,と思ってしかたないのですが本当に飽きっぽくて困ります.このような文章をインターネットに投下したところでおそらく黒歴史化するであろうし,意味は無いばかりかむしろマイナスであることが予想されるのですが,数十分前までは短い文章ではなく長いまとまった文章で判断されたいとかほざいていた自分にとって,幸か不幸か内容がない長い文章が誕生してしまったので,とりあえず置いておきます.壮大な痛い文章という名の言い訳がここに誕生してしまいました.
もうtwitterを休む理由もなくなりました,ほとんど吐き出した感じですね,多分すぐ戻ります.