たいむかぷせる2

何年か後に見なおして頭を抱えてくなるものたちのあつまり

書きたいことが溜まってくると

     何か文章を書くときには,やっぱり何を伝えたいかとかいう目的意識をはっきりさせてなおかつ,誰に伝えたいかということもはっきりさせて,論理的に正しいというかそういう文章を書けということをどっかで読んだような,聞いたような気がしますけど,僕は別にそうじゃなくてもいいんじゃないのかなあって思うんですよね.こういうブログもやっぱり,140文字で絶対に制限されてしまうTwitterとは違って,書くのにもそれなりに時間はいりますしそれに,ちょっとばかり偉そうなことを書こうとしてしまって,少しばかり身構えてしまうものです.後から読み返してみるとどれも,失笑を誘うというか,若いんだなあと感じるものばかりですね.

     さて今回の文章は,上の段落で書いたような,文章を書くための心構えみたいなものを全部無視して書こうかなと思います.Evernoteの話のところでも少ししたとは思うのですが,ちょっと前からブログの文章を含め色んな文章が,書いているうちにどんどん変な方向へ行ってしまって,結局のところ何を言いたかったのかわからなくなってしまうという現象が起きていました.それを防ぐために何か書こうというときにはメモをとるということをし始めたのですが,メモというのがすべての解決策となる素晴らしい方法だったかと考えるとどうやらそうではないようでした.メモをとることによって,ある程度は自分の中の考えが整理されて書きやすくなるんですが,なんというかメモから記事を書くには心構えが必要というか,チラシの裏系の軽いことが書きにくくなってしまったんです.やっぱり人間って面倒なんですね,はああ.
     この文章は,思いついたことを思いついたまま書くので,整合性とか論理性はさっぱりありません.僕が誰かと実際に会って話すときに,しばしば「話題が変わりすぎる」ということを指摘されます.この文章もきっとそうなっているはずなので,この面倒くさそうな文章を最後まで読んでくれるという心優しい方は,僕のくだらない話を聞いているという感じで読んでくれるとそれなりに感じが出て楽しいのかもしれません.ただ,実際の僕も一応は人間なので,誰かと話すときはその人の反応を気にして,話し方や内容を変えることはもちろんあります.そういう意味で少し違うものなのかもしれませんが….
     メモをとるというのは非常に重要だよという話はよく聞きます.最近ではGunosyとかはてなブックマークで記事を漁るというのを日常のルーチンの1つとしているので,効率のいい仕事の仕方とか,ビジネス向けっぽいものをよく読むので,そのせいもあるんだろうなあとか思います.高校生だったかの頃に一度,メモ帳を持つという生活を始めようと思い立ったことはあったのですが,さっぱりうまくいきませんでした.僕は頻繁にカバンを変えるのが好きなので,まずメモ帳1つだと普通に入れ忘れます.仕方ないのでカバンの数だけメモ帳を持とうという結論に至ったのですが,そうしてしまうと今度は何をどこにメモしたのかさっぱりわからず,メモ帳のメモ帳みたいなものすら必要になってきてしまいました.そうこうしているうちに,割とメインで使っていたメモ帳を失くしたり,その他のメモ帳が雨に濡れて色んなことを喪失たりとまあ色々あって心が折れ,結局あきらめました.今思うと非常に情けない終わり方ではあるんですけどね.高校生の頃はノートや教科書の裏表紙を使っていた記憶があります.
     そんなこんなでしばらくメモのない生活を続けていたのですが,やっぱりそれなりに重要なことはメモしておかないといけないし,大学生になって「今度こういう予定があるよ」と言ってくれる友達や教師のような存在が少なくなったこと,自分と全く同じ予定で動いている人が少なくなってしまったことなどから,仕方なくメモや手帳に頼る日々がスタートしてしまいました.重要な事を忘れずに覚えるということがもう少しできるといいんですけどねえ.
     それで今は,iPhoneのカレンダーアプリと,Evernoteに頼りきる毎日がスタートしてしまいました.紙のメモに限界を感じて,やはり最先端の技術であるクラウドを駆使したメモを使用することが現代人としての努めである,というのは建前で,たぶん「うおおこうやってクラウドをざくざく使いこなしている僕かっこいいー!」とかそんなんだろうと思います.きっかけなんてものは大抵はそんな感じであるべきで,しばらく使うまではそのサービスの良さなんてものはさっぱりわかりません.しばらくその2つを使ってみたのでそれもちょっと書きますね.
     最も使いやすくて面白かったのは,Macと同期できることでした.僕はスマートフォンのキーボードで入力するよりも,フルキーボードで入力する方が得意なので,長い文章を入力するときはもちろんいつもMacを使っています.後期の予定ーとか前期の予定ーとかいうのをMacからクラウドにざくざく入力して,予定が迫ってくるとそれをiPhoneでいつでも確認できる,そんな感じで使うのが僕にはあっているみたいです.あともちろんMacの方が画面も大きいので,急な予定はiPhoneから入れて,週や月のはじめなんかに予定の概観をざざっと見られるというのも嬉しいですね.こういうことはGmailにも当てはまることです.
     Evernoteをどんな風に使っているの?という質問もときどきもらうのでそれも書きます.言ってみれば,何でもボックスという感じでしょうか.Evernoteにはメールでノート作成を受け付けてくれる機能があるので,重要なメールはEvernoteに転送してノートにしておけば,いちいちメールボックスをスクロールする手間が省けます.明日の予定の乗り換え案内もスクラップして入れておけば,当日になっても短時間で乗る電車の確認ができます.インターネット上で気になった記事のスクラップというのもしています.後から読み返したら何かの役に立つのかなあ,みたいなもの,何かの役に立つばかりか,見返したことすら一度もないですけど.あとはブログの構想みたいなものですね.やっぱり書きたいことっていうのは街中を歩いているときとか,外でだらだらしているときとかそういうときに思いつくものであるので,いつでも手元にあるiPhoneにとにかくパパっと入力しておけるというのは素晴らしいことです.そのメモをもとに家に帰ってからMacで文章を書いて,それをEvernoteの中に入れておいて時間があるときにiPhoneで見返してちょちょっと修正する,こんなこともやっています.
     そういえば,いつかブログの記事のタイトルの話をしようと思っていたのに結局できていなかったので,今その話をしようと思います.ブロガーになるためのハウツー記事みたいなものには,ブログのタイトルというのはいわゆる「つかみ」であって,そのブログが将来的にたくさんの訪問者数を得て,有名になるという過程の中でとにかく記事に興味を持ってもらうという点でものすごく大事である,ということが書いてありました.まあ確かにそのとおりであるとは思うのですが,ここで僕の記事のタイトルのつけかたの話をしましょう.やっぱりタイトルである程度記事の方向性を決めていくことは重要であるし,そういう風に記事を組み立てていくことはそれなりにはやりやすいやり方であるのです.とはいえタイトルは今までの記事でのつけかたを思い出してみると,長くても15秒程度しか考えるために時間を使っておらず,書いているうちにアレこれはちょっと違うぞと思ってしまうということも多いです.とはいえ全部書いたあとにタイトルをつけるというのも,逆に自由すぎて困ってしまうような気もします.どうすればいいんでしょうね.知らんがなという回答が返ってきそうですがまあ,これもひとつ.
     ここ数日は日付を超えて割と時間が経ってから寝て,午前中もそろそろ終わりにさしかかったころに起きてだらだらして,大体おやつの時間になったあたりまで出かけるか出かけないか悩み,結局は出かけて図書館かドトールでだらだらするという生産的な生活カーストの最底辺みたいな生活を送っています.最近では机がむしろ勉強とか作業するという場というよりは,日常的に使ったり持ちだしたりするものを一時的においておくためのただの台のような感じになっていますので,物が多すぎてちっともそういうことをする気分になれません.もともと外に出かけて何かをするというのが好きなので仕方ないですね.勉強とか何か書くとかいうことは,普段と違う環境に自分をおくとそれなりに雰囲気も出て,なんだかいいものが生まれたり,するする進んだりするものなのかもしれません.周りで自分を含まない誰かの会話とか,声が聞こえていて,エアコンの作動音しかしない自宅よりさみしくないからかもしれないですね.誰かと一緒に何かしようとかそういう気はあんまり起こらないのですが,ある空間に1人きりというのはそれはそれで嫌だなあという面倒な性質は今も健在であるのでした.もちろん,「ドトールでMac出して作業している僕かっこいいー!」というのも少なからずあるかもしれません.というところまで書いたところでむしろ,それがほとんどなのではないかという気にもなってきました.ドトールはアイスコーヒーが¥200だから良いのですが,スタバに行ってしまうとどうしても抹茶軍団の誘惑から逃れることができず,高くついてしまうのでなかなか行けずにいます.
     ちょっと前まではサークル活動に勤しんでいて,常に誰かと一緒にいるという生活が長く続いていました.それが急に終わってしまって,なんだかものすごく寂しい感じが残っていて困る,というのはちょっと前にtweetしたと思いますけど,これも不思議なもので,しばらくひとりぼっちの生活を続けていたら,むしろこっちの方が自分に合っているとか,自分にとって通常なんじゃないかなと思えるようにもなってしまいました.でもやっぱり不思議なことはあるものです.サークル活動に勤しんでいたころは全くなかったのに,今ひとりぼっちの生活を続けていると,不思議とブログ書きたくなってくるんですよね.結局この記事のタイトルがやっとここに帰着するのですがまあそれはおいておくことにします.Twitterも確かに楽しいものではあって,一時的に何か言いたいなと思うときにはすごく有効な手段であるとは思うんです.適当に反応が返ってきて,適当に心が満たされますからね.まあでも僕としては,会話とかそんな感じのものみたいに一続きのまとまった文章を読んで欲しいわけなので,やっぱりこうして何か書かないと落ち着かないというか生きていけないのです.人間というのはアウトプットしないと生きていけないものなんでしょうか.
     こうして,何のためにブログを書いているのか,みたいなのを定期的に振り返るという習慣みたいなものはずっと続いていて,これからも続くようになるのかなあと思うと少しだけ感慨深くもなりますね.思い返してみれば,初めてブログを作ったのは中2の中頃くらいだったと思います.もちろんそのブログはしばらく前に消してしまって,何を書いたのかと振り返ると今でも枕に顔を埋めて足をばたばたというか,それで済めばいいですけどあわや死にたくなるくらいのものです.すごくどうでもいい話をするならば,前回の記事は,実は書ききるのにすごく長い時間を要していて,多数の構想メモみたいなものがあったり,4回くらい書き直したりしたものであり,そんなどうでもいい時間を過ごしつつも完成したものであるのです.でも今回の記事はそんな構想だったり下準備だったりというものは全くなく,書きたいことを書きたいまま書いていたらこんな分量になってしまって困っています.やっぱり気楽さに任せてざくざく書いていってしまうと,よくわからないものが完成するだけなんですね.いつになったら満足できる少ない分量で文章を書けるようになるんだろうと思うと頭が痛くなってきますけど.
     とまあこんな感じで,特に面白い話が始まるわけでもなく,今回の記事もここまで続いてしまったわけなんですが,ここまで読んでくれた暇j…すいません素晴らしい読者様には感謝の意はいつまで経っても尽きません.こんなのチラシの裏にでも書けよという人はきっといるんだろうなとは思うのですが,自分という存在を誰かに認めてほしいというのはきっと僕以外の人間の多くが持っている感情というか性質だと思うので,こういう完全に無益な情報は,これからも有限なインターネットという世界を圧迫していくことになるとは思うのです.実際に誰に読まれているかと想像するのはちょっと恥ずかしいけど,誰かには読んでいて欲しい.そんな面倒な感情で,僕という人間は今までもこれからも出来ていると思うのです.
     僕が多重人格というか,会う人,所属する人間関係によってキャラであったり振る舞い方を変えているというのは前回の記事でも書いたことであるし,たぶん実際に僕と会って,なおかつTwitterFacebookでも僕という人間を認識してくれている人は気づいていることと思います.寂しい感じの夜にひとりで色々と考えて出た結論をなんとなくのままでここに書くとすると,やっぱり誰かには認めて欲しくて,それを色んな視点から見て欲しいっていうことになるんじゃないのかなと思います.色んなキャラの自分がいて,それのどれか1つを好きになったり嫌いになってくれる人がいて,ちょっと仲良くなって,その他の自分を見られて,それでもっと好きになってくれたり,もっと嫌いになってしまったりということもこの先起こるんでしょうか.よくわかりませんけど.
     で,何の話をしていたんでしたっけ.