わかりやすいが1番えらい
わかりにくいものが多いなあ,なんてことを最近は思います。誰かを騙すとかなら(複雑なスマートフォンの料金設定とか)難しくするのもいいんでしょうけど,あんまり難しくしてもなあ,なんてことを思います。
少し前から,なにか文章を書いたり,人前で話したりするときは,なるべくわかりやすくしよう,というのを意識しています。どういう風にわかりやすくするかは今も明確に決まっているわけではありません。たとえば文章だったら,ひらがなや改行を増やしたり,難しい言い回しを避けたりしています。
コレを誰が読んでくれるのか?考えるのは大事なんだ,ということを色んなところで話したり書いたりしてきました。もちろん誰にでもわかるようにするのは難しいので,いつもは自分と同じくらいの年代の人,を想定して書いています。でも,今の感じだと誰にでも読みやすいんじゃないかな,とも思っています。自画自賛かもしれませんね。
なんでそういう風にしているかというと,やっぱりちゃんと伝わらないと困るからです。コレは僕に限った話ではなくて,何かを書いたり話したりするとき,っていうのは「なにか伝えたいこと」が絶対に存在するはずです。それがなかったら,そもそも書く必要はありませんもんね。
ときどき「こんな文章は自己満足なんだから,俺は自分の好きなように書く。読み手のことなんて知ったことか!」みたいな人も見ますけど,やっぱり色んな人が読んでくれて,自分の発信したいことをなるべくそのまま受け取ってくれる,っていうのは嬉しいことだと思います。
なんか教科書とか専門書とか,明らかに読者が限定されている場合ならアレコレ難しく書いてもいいでしょう。でもこうやって誰でも見られるようにインターネット上に公開するかぎりは,誰でも受け取れるようにしよう,と思っています。読んでくれる人がいてこそ,のものですから。
ここまで考えて,でも間違って伝わってたらどうしよう?とも考えました。どれだけわかりやすく書いたところで,間違って受け取ってしまう人は何人かはいそうですよね。
今のところはそれをどうすればいいかはよくわかりません。そもそも,こんな辺境のブログでは,批判も糾弾も受けることはほとんどありません。「なんかわけわかんないこと書いてるなあ」くらいのものでしょう。実際に正しく伝わっているかどうか,知りようがないんですね。
自分が本当に伝えたかったこととは違う解釈のされかたをしてしまって,間違った風にとられてしまう。こういうことは意外と最近の世の中ではたくさんあるようです。必ずしも発信したことがすべてそのまま伝えられるわけではありませんからね。
でも,それも仕方ないのかな,とも思うんです。それはやっぱり解釈の自由に依存してしまう。やっぱり書いた瞬間に,その文章は自分の手を少しだけ,ふわりと浮いていってしまう感じはしています。自信を持って公開したのなら後は,そのポテンシャルを信じるのみです。
さっき「なにか伝えたいこと」があるから文章を書いたり,何かを発信したりするのだ,と書きました。でも,それは作者から一意的に定められるものではなさそうです。一見すると一方通行のように見える,こういう文章でも,やっぱり僕は相互作用がある,と思いたいです。
なんとかがんばって「なにか伝えたいこと」を文章にする。でもそれは大抵の場合はうまくいかなくて,全部を伝えることはできないですよね。そこから自分について,伝えたかったことについて,新しく発見する。せっかく普通の本と違って,ちょっとくらいは書き手と読み手の距離が近いので,そういうことをして,成長していけたらいいな,とも思います。僕なんてまだまだアマチュアのアマチュアみたいなものですからね。
なかなか自分の文章に対するフィードバックが得られないのが歯がゆい毎日ですが,基本的にはTwitterで140文字で言っていることをふくらませているだけです。だからもらえる反応もたぶん似たようなことなのでしょう。
毎日ブログを更新するぞ!と8月病(そんなものがあるとすれば)で意気込んでみましたが,やっぱりコレだというネタがないときにひねり出して書くと,自分なりにもあんまりいいものができた感じはしませんね。
そんな中途半端なものを公開するなよ,って怒られそうなものでもありますが,せっかく書き上がってしまったものは仕方ないですね,ごめんなさい。これでも読み手のことを考えて,なるべく面白いものを書こう,とは思っているつもりなのですが。
なにかを書いていると,その途中に「ああコレも書こう」とか「実はコレについては書けないんじゃない?」って思うことが多くて大変です。
この夏が終わった後に見返して,少しはおもしろいものができるんでしょうか。