たいむかぷせる2

何年か後に見なおして頭を抱えてくなるものたちのあつまり

クラウドの話(概念編)

  恥ずかしながらiPhoneを持ち始めたのは実は数ヶ月前で,それが人生で初めてのスマートフォンなのでした.iPod touchをそこに入れていいのかわかりませんが,やっぱり小さなコンピュータのようなものを肌身離さずいつでも持っていられるというのはすごく画期的なことである反面,そこにはやはり実際のいつも使うコンピュータであるPCやMacとの差,みたいなものももちろんあります.そんな中で使い始めたのがクラウドだったのですが,これが実に使いやすくてもう手放せない.今回はそんな話をしようと思います.

  はじめにこの記事の構想を練る段階では,はじめのほうにクラウドの概念的な部分,すなわちいつものように,これらはこうこうこれでこうなっていてうんたらかんたらーみたいな自己満足の塊みたいな部分を書いて,その後に各サービス(DropboxとかEvernoteとか)の話をしようと思っていました.でも,それだとまとまりがないばかりか,もとから無駄に冗長すぎる記事が更に冗長になってしまうだけであるのでやめにして,まずは概念的な部分だけ書くことにします.もちろんコレを説明するのに具体的なサービス名を挙げざるを得ないのですが,その具体的なそれらについては,おそらく次回以降の記事で書くことになるでしょう.忘れなければ,ですが.
  クラウドを本格的に使い始めたきっかけは「なんだかかっこいいから」それに尽きてしまうんですよね.そんなよくわからない理由じゃなくて,もっと考えてちゃんとした理由を出そうとは思っても,どうしてもそれだけの理由しか出てきません.でも,ふと気づくと,やっぱりそういうものなのかなとも思うんです.というのも,クラウドというのは大きすぎるし,偉大すぎる技術であるからです.別にクラウドで具体的に何かしようとか,クラウドで具体的にこんなことをするのを楽にしようとか,そういうものではないんです.もしかしたらそういうものであるかもしれないんですけど,それにしてはクラウドは色んなことが出来すぎてしまうのです.
  今回この記事を書こうと思ったのも,そういうところが始まりではあるのでした.最近Gunosyとかいう自動的にユーザーの面白いと思うであろう記事を独自のアルゴリズムで探してきてくれる便利なアプリケーションがあって,それを使っていると,たぶん僕の嗜好なんだろうと思いますけど,様々なクラウドの記事を探してきてくれます.でもそれらは,結構わかりにくい.星の数ほどあるサービスの1つ1つを取り上げて,これはこんなことができるよ,あんなことができるよとただただ羅列しているだけのようにしか思えないのです.もちろんそれでも満足する人は満足するでしょうし,そうするしかないんだろうとも思うのですが,やっぱり僕はクラウド全体の総括?みたいなものをまず書こうと思いました.とりあえず得体のしれないものが何なのかは,なんとなくでもまずは知りたいですよね.
  ご多分にもれず前置きが長くなってしまったので,なんとか本題に入っていこうと思います.クラウドを使ってもっとも変わったなとか,いいなとか,これがクラウドだよね,って思ったことはやっぱり「なんとかなる」ことでした.僕は忘れっぽい人間なので(iPhoneの記事を読んでいただければお分かりでしょう)この点は非常に助かりました.一昔前は,ファイルのやりとりといえばUSBフラッシュメモリが主であって,どれだけ素晴らしいデータを作っても手渡しにするかあるいは,メールに添付するしかありませんでした.それが変わったのです.USBフラッシュメモリを家に忘れてきたらそれで終わりということは決してなくて,クラウドにさえ入れておけば,(少し面倒ではありますが)インターネットにつながる端末さえあれば取り出すことができます.
  Evernote公式のマニュアル?だったか紹介文みたいなものには「Evernoteはデータの銀行です」と書いてありました.本当にそのとおりなんですよね.自分のカバンというよりは銀行であって,どこでも引き出すことができる.銀行はそれをしっかりと守っていてくれる役割もあるので,データが突然消えてしまったときも安心,なんていう話は今更するまでもないでしょうね.
  スマートフォンというのが一般的になってきて,モバイル端末は電話というよりむしろコンピュータに近づきました.今では,スマートフォンの中で普段もっとも使わない機能が電話機能である,という人も少なくないでしょう.でも,別にコンピュータでできることをスマートフォンでし続けなくてもいいとも思うんです.その最たる例がメールの添付機能ですね.確かにメールの添付機能は便利ですし,おそらくここ20年くらい?のファイルのやりとりはそれで行われてきました.
  でもここにもクラウドは入り込んできます.まだあんまり使っている人は見ませんけど,添付ファイルの代わりにクラウド(DropboxGoogleドライブ)を使うときっともっと便利なんですよね.添付ファイルって意外と容量制限が厳しいので,書類ファイルであれば全く問題はないのですが,音楽や動画ファイルだとすぐ規定の容量をオーバーしてしまいます.でもクラウドなら大丈夫.すでにファイルは自分のサーバ上にアップロードされているだけなので,そのリンクを貼り付けるだけで良いのです.いちいちアップロードする手間もありません.自分がDropboxを使っていて,相手もDropboxを使っていたのなら,ダウンロードすらする必要はないのです.
  共有のしやすさ,というのも最も大事なファクターの1つであり,最も便利なところです.ファイル単位ではなくフォルダ単位で送信,共有ができるので,たとえば企画書やマニュアルなど,大勢で編集したいものがあるときにも,ファイルは常に最新の状態に保たれます.GoogleDocsはいい例であり,きっとそういう仕事や作業をする必要がある人にとっては非常に便利なんでしょうね.僕はまだそういう仕事はしたことはないのですが.
  このような感じで,クラウドのここが便利そこが便利,というのを書き続けていくことはできます.クラウドはあまりにも便利すぎますからね.でも,書いていてつまらなくなって来ました.こういうことは,その手のサービスの広告を見ればいつだって載っていることであるし,いつもどおりすぎて多分これを読んでいる人もつまらないであろうと思います.ごめんなさい.つまみ食いを繰り返す抽象的な話すぎて,さっぱりわからなかったことと思います.
  そうは言ってもやっぱりこの記事はおとすところにはおとしておかないといけないので,そろそろ終わりに向かおうと思います.ここまで書いてみて,あまりにも何を言っているのか,自分でもわからなくなってきたので,こんなものを書くのはやめればよかったなあとも思ったんですが,1度書いてしまったものを消すのは非常にさみしいし,書くことによって次に何を書きたいのかやっと決まってきました.やっぱり構想であったりメモというものは大切ですね.書き始めようとしたときは自分の頭のなかでしっかりと出来ていたように思えるものが,いざ書きだしてみるとやっぱりボヤけたままであって,変な文章ができてしまいます.
  クラウドを使い始めたきっかけは「なんだかかっこいいから」であるということを先ほども書きました.お恥ずかしい話ですけど,最先端の技術であるクラウドを,最先端の端末で使っている自分はなんだかかっこいいんじゃないかと思っていましたし,今もきっと心の片隅では思っていることでしょう.ほとんどのクラウドサービスは無料であるので,とりあえず何でもかんでも使ってみればいいと思うのです.そうやって「なんだかかっこいいから」使ってみたものが,いつの間にかすごく便利なものになっていて,生活の一部として溶け込んでしまう,もう手放せない.これがテクノロジーなのか,困ったな,でも楽しい,みたいなことになっていく過程を今度は,サービス名ごとに書いていったらそれなりに面白いものができるんじゃないかなあとなんとなく思います.Evernote,Dropbox,Gmail,iCloudあたりの話はしておきたいかな,と思います.なんだかよくわからない文句みたいになってしまいそうな気もなんとなくはするんですけど.

知名度と引き換えのもの

  今の時代はお金が絶対的な価値をもつ時代ではなくなってしまったという話はしばしばされていて,僕もそれは確かにそうなんじゃないかなあと最近割と強く思います.ボランティアが始まりくらいだと思いますけど,ボカロ曲や一連の著作権関連の話,無料アプリがこれだけ発展している今の時代を考えると,お金よりも,人気であったりとか知名度であったりするものの方が価値として重んじられるようになってきたような気がします.もちろん,近代社会のように,かなりはっきりした形でモノの売り買いが行われていないという意味であって,例えばGoogleなんかは広告をうまく使ってきちんと利益を生み出していますし,今でも日常生活のほぼすべてがお金しでは行えないことも考えると,お金の価値は完全に衰退しているわけではないですよね.このことも話せば長くなってしまうようなので今回はやめておきます.
  お金の価値の衰退の話はまあこのくらいにしておくとして,でも確かに,知名度がこの時代の人間を満足させるかなり重要な指標の1つとなってしまっているのは事実であると思います.例えば彼女を欲しい人がいたとして,彼女が出来たというだけで満足してそれでおわりということはほとんどなく,多くの場合は周りに見せびらかすとかそういう形でどんどん欲望が発達していって,満足することはありません.他社に承認されたいという欲求が尽きないなかでSNSに出会ってしまった人間は,そりゃあ食いついてしまうよね,と思うんです.
  人間は社会的な関係の中で生きる生き物です.そして欲望が永遠に尽きない生き物です.ライオンは必要以上な獲物は取らないとか(本当かどうかわかりませんけど)いうよくある話の中でもあるように,そのような点が人間と他の動物を区別する重要な点でもあります.他者に承認されたい欲求が強くて,なおかつその欲求が永遠に尽きない人間にとって,SNSはいうなれば最高のツールのひとつであったと思うんですよ.
  多くのSNSにおいて,知名度を得るのにお金はかかりません.考えてみればそれもそのはずで,まず知名度を正確に表す数値が存在しないため(フォロー数,フォロワー数はそれに準じるものではありますが,正確に示しているかどうかと聞かれるとかなり微妙です),知名度を得られているか,他者に承認されているかどうかは,自分の実感でしかありません.欲求が尽きない人間がそんな実感でしか感じられないものを途中で制限することができるのかというと,そんなはずもないですよね.
  少し前に,Twitterを使って炎上してしまって,司法のお世話になってしまう高校生がいた,という話題に対して,大人の方々が「あれだけのことをやったのにどうしてインターネットをやめないのか」というtweetをしていました.というのもそういうことをしてしまった高校生は,その後もTwitterをやめなかったそうです.僕はやめられないのもある意味では当たり前なのかな,という風にも思ってしまうんですよね.
  手紙から電話,電話からインターネットという風にコミュニケーション手段がどんどん発達してきて,より瞬時に,より多くの情報を伝えられるようになりました.僕達の世代は物心ついた時から多すぎるともいえるコミュニケーションに接していて,それらは周りに溢れかえっています.だからもう,誰かと繋がっていないことは考えられなくて,誰かとつながっていることがあたりまえ,誰かと繋がっていないとどうしようもなく不安になってしまう.そういう風に,生まれた時からそうなってしまっていました.インターネットやSNSは日常に入り込みすぎてしまっている.僕達にとって,インターネットは母語や呼吸のそれと等しいというレベルまで達してしまっているような気がしてしまうのです.
  こういうツールの使い方について学校で教えろとか,家庭で教えろというのは全くずれているとしか思えません.あまりにも近くにありすぎて,もはや呼吸や母語のようなものになってしまっているものについて,何を教えればいいんでしょうか.考えてみれば,SNSの使い方を学校で学んだからとか,本で読んだからSNSやっているわけではないんですよねきっと,周りがやっていたからとかで始めてみて,いつの間にかやめられなくなっていた,そういうものだと思うんですよ.だからきちんとした説明書(もちろんそんなものないですけど)を読んで始めたわけではなくて,全部みんな自己流です.
  でも問題は,そういう風に簡単に使えるツールとしては,インターネットはあまりにも強大で,途方も無いものだったことです.携帯電話やスマートフォンから簡単にアクセスできて,いつも身近にあるのに,その実体はとんでもなく大きいもので,そもそも実体があるのかどうなのかもわかりません.高校生とかそういう時期は,自分が世界の真理を知ってしまったかのように錯覚してしまう時期です.自分は生きてきて,世界の広さとか奥深さを何一つ知らないままなのに,自分の経験則やこれまで得たことで世界が回っていると信じてしまう.自分のまわりのことが,世界中どこでも起きていると思ってしまう.
  最近のSNSはほとんどが,自分の身近からはじまっていきます.それが身近であるがゆえに,どんどんユーザが増えていって,多くの人のSNSは身近で完結してしまうことが多い.ほとんどが顔見知り,ほとんどが知り合い.そんな中で,日常生活と同じようにTweetしてしまって炎上する,そんなケースが見ていて多いような気がします.高校生が知るよりも世界はずっと広いし,あんまり優しくない人だっている,そういうことを知らないまま強大なツールを手にしてしまっておこる問題であるとは思うんですよね.これも便利さの代償みたいなものなんでしょうか.
  ある意味で平和ボケしてしまっています.今の高校生って,プライバシーの尊重とかいうものを一種のイデオロギーとして使います.でもその反面,SNSには自分そのものとも言えるようなものをひたすら投稿している.そういうのも変だなとも思うんですよね.SNSというのはそもそも共有するためのものであるようにも思えますし.日々のtweetが意図せぬライフログとなって何年か先の自分にのしかかってくる時代にもうなってしまっているのかもしれません.
  ここまで書いて平凡な結論で非常に申し訳ないんですけどやっぱり僕は,習うより慣れろだと思うんですよね.包丁の使い方を実際に指を切って学ぶように,実際に失敗してみないと学べないことがあるように感じるのです.Twitterで高校生が炎上したり,reply爆撃をすることに対して,若年層の残虐性とかいう観点からあれこれ批判する大人もいますがそういうことはあんまりなくて,ただ使い方を知らないだけなんじゃないかな,とも思ってしまいます.ピストルの使い方を知らない子供が誤って打ってしまったような感じで.
  これから今まで以上にSNSは身近になっていくでしょうし,もっと新しいサービスも増え,今まで以上に依存していくことでしょう.でもその反面で,上に述べたような炎上のようなものもきっと増えていくんですよね.失敗して学ぶことが大事だと述べましたが,TwitterSNSで一旦失敗してしまうと,もうそれで人生がそれなりに詰んでしまうという局面にまで達してしまったのは非常に残念です.昔はネットゲームのような,もう少し匿名性があって,もう少し狭いコミュニティが存在し,そこで少し炎上しておくことで,そういうことも学べたのですが.
  いつもどおり何の話だかさっぱりわからなくなってしまいました.でもやっぱり,SNSとの付き合い方?みたいなものはそれなりには考えておく必要があるのかな,とは思いました.おしまい.

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  そういえば今回からメモのようなものを使ってブログ記事を書くようになりました.なんだか少しだけさくさく書けていいですね.最近Evernoteやカレンダーアプリ,リマインダーをやっと使うようになって,メモの大切さを実感しています.そのへんのクラウド関係の話もそのうち書けたらいいな,なんてぼんやりと思っています.誰得??って感じですけど.

iPhoneを電車の中に置き忘れた話

 はじめての家庭教師アルバイトを終えて疲れていた僕は,遅い各駅停車から速い急行に乗り換えるときに車内にiPhoneを置き忘れてしまいました.iPhoneを忘れたのは乗り換え後の急行電車内.僕は非常に忘れっぽくて(色々とご迷惑をおかけした皆さん,本当にすいません)こういうことは1回目ではないのですが,やっぱり焦ります.しかしiPhoneがないことに気づいたのは最寄り駅の1つ手前の駅でした.
 1つ手前の駅でまず焦ります.忘れたと思ってカバンの中を探したら実はなんてことはない,いつもとは違うところに収納していたとか,カバンの奥底にぽっと入り込んでしまったとかいう経験は多いと思います.コレは忘れたなと思って必死にカバンの中を探すのですが残念ながら見つかりません.この時点で心臓はすでにバクバクで,電車の中に忘れたのだという結論は導けたもののそれ以上どうしようもなく,最寄り駅に着きました.
 最寄り駅に着いた僕は,半ばパニックになり脳内ではひたすら「やばいやばいやばいやばばばばbbbbbbb」とかいう声が聞こえつつも必死で自分を落ち着け,MacBookを持っているということに気づくに至りました.(別にアップル商品の宣伝をするわけではないのですが)iPhoneには「iPhoneを探す」という割と便利なアプリケーションがついていて,GPS経由でiPhoneの位置を測定することができます.某ハンバーガーショップの前ならWi-Fiが届くだろうと,そのあたりに行ってMacのディスプレイをパカっと開きました.
 焦りに焦ってパスコードを2回も間違えつつもブラウザを起動してGoogleに「iCloud」と入力し,iPhoneを探すのWebページに辿り着きました.これは余談なのですが,もしもこの前の僕のようにiPhoneを探す必要が出てきてしまった人は,なんでもいいのでインターネット接続が可能なPCを用意して上記のように検索すると,iCloudアカウントを入力し認証することでそのようなページに飛ぶことができます.きちんと不測の事態に備えられているのです.まあそれはいいとして,震える指でiPhoneの現在位置を確認すると,最寄り駅の次の駅上で緑色ボタン(位置情報を取得可能)が点灯しました.
 全力でガッツポーズをしつつほおっとため息をつくのですが,iPhoneの現在位置がわかってもそのものを物理的な手段で回収しなければならず,この安心もつかの間です.iPhoneが駅上で探知されたことから足りない頭で僕は推理をし,「電車に乗ったまま移動しているのでは?」という仮説を打ち立てます.それならば駅員さんに連絡すればなんとかなるだろうと思い,ドタバタと係員室へ駆け込みました.
 かくかくしかじかiPhoneをなくしたと伝えるのですが,どの列車のどの場所に忘れたのかを正確に伝えなければならず,非常に困難でした.たぶん各駅停車に忘れただろうと思って,なんとか時刻表を見せてもらって時間はわかったのですが,はじめての路線ということもあり如何せん座席位置の特定が手間取りました.乗り換えた時の某駅ですぐ階段が見えたとか信頼できるとも言いがたい情報を頼りになんとか座席位置も暫定で調べてもらい,サーチをかけてもらいました.10分後あたりに到着する割と大きな急行停車駅で調べてくれるそうです.
 そういえば前に地元の名古屋鉄道で忘れたときは,いちおう座席位置は伝える必要がありましたが,連絡を受けるとすぐに車掌氏が列車内をサーチしてくれて,すぐ連絡があり,なおかつ最寄り駅まで電車に乗せて運んでくれるという神級の優しさでした.別に今回忘れた某鉄道に文句を言うわけではありませんし,東京は人が多いですし,そんなのは忘れた僕が1番悪いのですが,こういう忘れ物常習犯にやさしい鉄道会社もあるんだよということはとりあえず書いておこうと思いました.
 おもむろに再びMacBookを開いてiPhoneの位置を確認すると,あろうことか,次の駅を少し離れた住宅街の中で緑色ボタンが点灯していました.電車の中のままだろうという僕の予想は残念ながら外れていたのです.駅員さんに丁重に捜索を中断するようお願いしました.僕の頼みの綱は切れてしまいました.そこでもう1度パニック派が訪れ「やばいやばいやばいやばばばばbbbbbbb」となるのですがやはりどうしようもありません.そこで僕のパニックは今思うと何をトチ狂っていたのだとしか思えない行動を取るのでした.
 僕が押したのは「サウンドを再生」というボタンでした.コレ使ったことある人はわかると思うのですが,この機能のコンセプトは要するに「部屋の中でなくした携帯電話に電話して着信音でサーチする」というものです.マナーモードだろうがなんだろうがけたたましい音がiPhoneから鳴り響くので,そのような用途であれば全く問題はなく,むしろ助かるいい機能なのですがその時の僕はやっぱり今考えてもおかしかったです.そのボタンを押しました.
 押した後すぐに我に帰り「いかん!これはいかん!」と気づくも時すでに遅し,1度「サウンドを再生」を押したら最後,その要求を取り消すことはできません.案の定,もっとも恐れていた自体が起こりました.僕のiPhoneを示すボタンが,緑色ボタンから灰色ボタンに変わったのです.灰色ボタンはGPS位置取得エラーまたは,iPhoneの電源が切られている状態を示します.この灰色ボタンが後者を示しているということは,あまりにも明らかであったのでした.
 電源が入っていなければどうしようもなく,せっかくの最新技術も使えず,泣き寝入りするしかありません.僕のiPhoneを拾った人が実は悪い人で,電源を切って初期化し,ブックオフなどに白ロムとして売り飛ばしてしまうのか(かなり新しかった),お母さんお父さんごめんなさいなどと考えつつ,半ばあきらめモードに入っていた僕に,一筋の希望の光が差し込みました.
 再び位置情報を特定できるようになったら通知する,というチェックボックスをダメ元でオンにしていたのに救われました.そこはその駅の近くの大きな公園の横の小さなアパートでした.5分くらい経ってもiPhoneは移動することはないので,どうやら僕のiPhoneを拾ってくれた方はそこにいるらしいとわかりました.完全に拾ってくれた方を悪者だというレッテルを貼っていた僕は,そこの位置情報をメモして自転車凸まで考えていました.今思うとそんなことをしても部屋番号は特定できず,なんの意味もないただの迷惑少年(そろそろ青年かも?)でしかないのですがコレもパニックのせい,ということにしておきましょう.しかし,僕は最も気づかなければいけないポイントに気づいていなかったのです.
 あ,そういえば,2台持ちだった.
 ピコン!と脳内に電球の光が灯ったかどうかはわかりませんが,また1つ方法が生まれたのです.なんとか電話をしようと思うのですがここで問題発生,2台持ちiPhoneの電話番号がわからない!それもそうですよね,もともと電話をしない上に,それがもう1回線あっても使いませんもの.友達や家族から聞こうにも,連絡がつくつかない以前の問題で,電話番号すら教えていませんでした(・ω<).2台持ちとは何だったのか.
 募るぐぬぬ感に耐えつつも,ここでやっと解決策となる発想が生まれます.電話がダメならメールがあるじゃない!もともとiPhoneには一定時間ロックしかかけておらず,そうであっても届いたメッセージが通知画面でプレビュー表示されるはずだということに気づきます.マッハでもう1つの携帯電話からiPhone宛に「このiPhoneを拾ってくれた方,こちら090xxxxxxxxにご連絡ください!」とかいう内容のメールを送信しました.
 すぐに連絡がきました,本当にすぐ,マッハです.もう僕の目の前にはお釈迦様の御姿さえ見えていて,ジーザス…!と叫びそうなくらいでした.「あの〜,このiPhone夫が拾ったんですけど〜(以下略)」回線の向こうに向かってお辞儀を繰り返す様は周囲の人たちから見てかなり異様だったとは思うんですがその時の僕は喜びでいっぱいでした.というのも,僕のiPhoneを拾ってくれたのはどうやら外国籍の方だったらしく,拾ったものの日本語表示のiPhoneの操作がわからず,とりあえず家に持ち帰って奥さんに判断を仰ごう!と思ったようです,何はともあれ助かった僕のiPhone
 自転車で行けない距離でもないので自転車凸しようかと思ったのですが,ご親切にももう1つ次の駅まで届けに来てくれるということです(夫),これだけで感謝感激なのですが今思うとそんなよくわからない人間に住まいを知られるのは嫌ですよね.奥様いわく「夫はカリブ系なのですぐわかると思いますよ〜」とのこと.スキップするほど喜んで次の駅に向かいました.ファミマで\1,000くらいのお菓子を購入しつつ.
 その駅でしばらく待つと彼が現れました.奥様の言うとおりすぐわかった.「Thank you very much!」と言うも「イエ,ドウイタシマシテ」と返される.お菓子を渡すと彼は固辞しましたが,そういうわけにもいかず「ありがとうございました」とだけ伝えてお菓子を渡し,帰路に着きました.優しい人に拾われてよかったものの,忘れ物常習犯すぎる自分にまたしても自己嫌悪に陥りました.おしまい.

 いろんな人に話すを割と好評価を受ける話,せっかくなのでブログ記事にしてみました.その日にTwitter投下しましたがやはり140文字という制約もある以上,ディティールは削らざるを得ません.そんなような感じで書いてみたものの,無駄に冗長なだけであんまりおもしろくないですね,困ったな…
 *この文章中の団体,人物はすべて実在のものであり,この文章はノンフィクションです.

破綻するところ

 やっぱり何か書きたいという衝動は定期的に訪れるものであって,今回のもそういった感じで書いています.
 いつもは何か記事を書こうと思ってばばばっと書いていると適当な文字数になり,それを特に見直しもすることもなくアップロードボタンをクリックして,残念な記事がひとつできあがるというという形でしたが,今回のこの記事ができるまではちょっと違いました.下書きのまま終わってしまうというものがいくつかあったのです.
 この記事にいたるまでに数本の下書きがありました.書いた内容は多岐にわたります.日常系のこととか,ちょっと思想っぽいこと,普通に近況報告,などなど.ううん,なんでこうなってしまったんでしょうねえ.自分がそのようである,と思っていた過去の自分と,現在の自分はどうも様子が違っていて,これはどうしたことか,と考えるというのはときどきあるとは思うんですけど,それが本当に変わっているということになるのか,それとも変わっていると思っているだけなのか,それはわかりません.でも自分は前の自分とは違うんだぞっていうことを脳の奥から深層心理が自分自身に伝えているかもしれないという可能性は拭いきれず,そういうシグナルを無視するのもそれはそれでかわいそうかなとも思うんです.
 記事になれなかった下書きたちは,たいていは何か偉そうなことを書こうと思った残骸であるようです.偉そうなことというか,それなりに筋の通った文章ということになりますね.やっぱりそれなりな思いで書くからには,それなりの文章を書きたいわけであって,それなりに筋の通った,読んだ人が,なるほど,そういうこともあるよね,と思ってくれるような文章であるべきだと思うんです.ところが最近はその筋,の破綻に気づくということがしばしば起こるようになりました.
 破綻というとちょっとかっこいいですけど別にそうではなく,書いているうちに,あれ,これはちょっとおかしいぞ,困ったな,というのが生まれるというものです.自分の破綻に気づけるというところまで成長したと考えれば嬉しいですけど,もともと書こうと思った題材がそういう能力が足りないことによって結果的に捨てられざるを得ないというのも,それはそれでちょっとさみしいと思うのです.
 世の中の文筆家の方々はどうやって文章を組み立てているんでしょうね.レポートとか課題とか,書くものがあらかじめそれなりに決まっているものであったのなら,メモや頭のなかの構想をたよりにして文章を書いていけばいいですけど,何を書いてもいい,みたいなエッセイ風のもののときはどうやって書くものを決めているのでしょうね.それは結構気になるところではありますけど,そういうことを懇切丁寧に教えてくれる人というのもあんまりいないようです.やっぱり文章を書くというのは結構難しいことであって,自分がそれと格闘して書けるようになった方法論とかいうものをあんまりやすやすと他人には教えたくないのでしょうか.それとももともとそんなものはない?
 もう少し考えられるのは,やっぱり年齢が上がっていくにつれて(年齢は関係ないような気もしますけど)周りの批判が目に付くようになったというのもあるでしょうか.ある事柄について,たとえば政治とか教育とかでもいいですけど,それに対して何らかの自分の考えを載っけたときの批判を恐れている,ような気も少しはするのです.もちろん,その批判をはっきりと書いたり,僕に直接送信してきたりする人は少ない,いやほとんどいませんが,アップロード後にTLをちらりと見ると,それをそのように受け取ることができそうなものも少しはあって,ちょっとさみしい気持ちにもなります.こうやって他人の評価を過度に気にするというのは,コミュニケーションのツールが発達してしまった現代ならではの悩みのひとつであるように思います.その悩みというか柵から解き放たれたいのなら,そりゃあSNS含むコミュニケーションツールをやめれば済むんですけど,それもちょっとさみしいので,やっぱりこうやってなあなあのところを行ったり来たりするという生活はこれからも続くのでしょう.
 でもネット上で見かける批判のようなものの性質も最近は気になるところです.まず思うのは,重箱の隅をつつくようなものが多いところ.ブログとかtweetとかで自分の意見を述べているという人はちょっと前に比べるとかなり多くなりました.でもそれに対する批判が,本当に重箱の隅をつつくものが多い,と個人的には勝手に思っています.細かいデータ上の指摘とか,日本語の言い回しとか,そのあたりをミスするのなら,書いた人間の能力も推し量られる,よってその文章には説得力や根拠もないだろう,といった具合の論法でしょうか.僕はそんなところは割とどうでもいいはずであるし,あんまり重要なことでもないと思うので,ぱっぱと通過した方がいいのでは?とも思うんですが.
 もう1つは,知らないことから批判する,というものでしょうか.例外を持ち出してくる,というものにも似ています.こんなことも知らないのにこんなに偉そうに書いているの?笑っちゃうーみたいなものも多いと思います.色々なことを周知の事実化してしまうと言えるかもしれない.批判したいとは思うけど,なんか手札がなくなってきて,とりあえず相手が知らなさそうなことを言って,こんなことも知らないの?じゃあもう議論の余地ないわーみたいなの.それもちょっと残念かなって思います.例外を持ち出してくるのもコレに似ている気がします.そんなん数学じゃないんだから,何らかの原因と結果を繋ぐ考えだされた理論にいくらかの例外があるのは考えてもみればむしろ当たり前なわけで,そういうのも何だか本質的な部分とは違っていると思います.
 あと1番気になるのはやっぱり,他愛もないtweetのやりとりであるはずのものが,常にどこか深いところでは勝負の形をとっているところです.別に,相手や自分が知っているとか知らないとか,わかっているとかわかっていないとか,考えているとか考えていないとかいうことを意識して,まあまあの落とし所に落とせばいいのに,〜派や○派といったほとんどが2項対立であって,相手を完全に打ち負かそうとか考えながら使われていることが多いと思います.なんか殺伐としている感じで困るんですよね,もちろんそんななあなあ人間ではなく,どちらかはっきりとした意見を持っているというのは重要なことだと思います.特に就職や,就職してからにおいてもそれはかなり重要でしょうね,日本人は意見を持たないと批判される部分でもあります.でもやっぱり,それを普段からやっているというのは少しさみしいような気がしてしまいます.別にディベートするわけじゃないんだから,いちいち相手の発言に食って掛からなくても楽しいと思うんですけどね,どうなんでしょう.
 とまあ偉そうに書いてきましたが,このようなことは僕自身も無意識のうちにしていることであるはずで,普通にブーメランがぐさっと刺さってきて困っています.批判が怖くてあんまりしっかりしたことを言えなくなったようにも思います.これが成長なのか退化なのかはわかりませんけど,昔の感じを取り戻したいなあと思うこともあるんです.昔の感じ,っていうのが存在するなら,ですけど.やっぱり世の中は変わっていくわけで,自分も変わって行かないといけないな,とは思うんですが,やっぱり変わらない部分も持っていたいなと思ってしまうんですよね.いつもどおり結局何が言いたいのかわからなくなったところで今日もおしまいです.

言い訳

お久しぶり,になるんでしょうね.
また唐突にTLからいなくなってみたのですが,誰か気づいてくれているでしょうか.心配(?)してくれている人はまあ,いないとは思いますがもし存在するのならすいません,毎度のことながら意味はないのであって,本当にすいません,それしか言えないですね.
今までの傾向ならば,何ヶ月おきかに『よしTLから姿でも消してみるか』とかいう思いつかなくていいことを思いつき,その結果しばらくいなくなるものの,『なぜ姿を消したくなったのか』という問いに答えが出ることはないまままた寂しくなりTLに戻って適当に喜ばれて,そのままずるずる,という形になることが予想されますが今回はどうやら違うようです.もちろん予備校が始まって予習復習がそれなりに忙しくなったというのも理由のひとつではあるのですがそれはそれで面白くも何ともないのでここはひとつ,またできもしない自己分析をしながら何か書いてみようと思うのです.

Twitterというのは非常に頭から頭へ伝わる速度が非常に速いコミュニケーションツールです.頭から頭へ伝わるという表現は今さっき僕が作った表現ですので何だそれと思った人は僕の基準では正常な思考の持ち主です.頭と頭,では少し分かりにくいので最初の頭を頭1,次の頭を頭2とします.大体予想はついていることかと思いますが頭1は僕の頭,頭2はあなたの頭ですね.頭頭と書き続け,頭という文字がゲシュタルト崩壊してきたところで別に分ける意味もなかったなということに気づきました,すいません.Twitterは考えたこと,思いついたことを気の向くままたったかたーと打ち込んで送信ボタンないしキーを叩けばすぐにあなたの頭に届く,極めて高速なコミュニケーションツールです.
会話ではない言語のかたち,すなわち文字ですね,を用いたコミュニケーションは,多分時代と共に進化してきました.大まかに思いつくものを挙げれば,手紙,電子メール,そしてTwitterでしょうか.もちろん,この分け方はかなり曖昧ですので,まだまだ僕が知らないだけでたくさんありましょう.(ここでは1対1のコミュニケーションのみ考えます,1対多数まで考えると非常に煩雑になりますし,考えだしたらきっと面白いものになるとも思われるからです,また暇だったら書きます.)
僕はこういう考え方をします.時代がより現代に近づくにつれて,頭1と頭2の時間的なタイムラグ,概念としての損失が小さくなるのではないか,と.頭の中で思いついたことが,ほとんどオリジナルのままもう1人のまま届くようになってきたということですね.Twitterはもはや会話にも迫る勢いであるかもしれません.それは報道を含め早さが時には正確さを超えて優先される場合には有効だろうと思うのですが果たして1対1のコミュニケーションの場合にはどうなんだろうということを思って今,こういう文章を書くわけです.
僕が手紙というものは校外活動のお礼状というフォーマルなものしか書いたことがなく,プライベートなやり取りとしての手紙は書いたことがないということを先に断っておきます.だからこの先の考察にはそれほど明確な根拠がありません.たとえば,僕が誰かに手紙を書こうと思いついたとして(面白いので気になる異性とでもしておきましょう)大体文字数は何文字くらいになるのか,と少し考えてみます.んー,それなりの量をそれなりの文字数と大きさで書いて,漠然と想像すると用紙4枚くらいでしょうか,少なくともTwitterでの1tweet分(140文字ですか)よりは多いでしょうね.それに加えて,Twitterと違って相手に届くのも,相手からのレスポンスも驚くほど低速です.Twitterなら数分,早くて数十秒のところを数日は待たなきゃいけない,下手なことは書けませんね,きちんと推敲して不適切と思われる表現を避けなきゃいけません.でも遅さは悪いことだけではありません,なにしろ文字数に制限はなく書こうと思えば無限大まで文字を書くことができますから.つまり表現を補足することもできるわけですね,『好きだよ』に加えて,ポゥエム的なものも追加できます.あともう1つ大事な要素があります.当たり前のことですが,文章がまとまって届くことですね.1ページ目よりも3ページ目が先に届くことはない,普通はまとめて封筒に入れますもんね.
じゃまあ手紙の特徴を挙げるのはこれくらいにしておいて,今度はTwitterと比べてみます.
別に僕はここで『Twitterというのはこうこうこうして手紙と比べて悪いものであるから,みんな,この文章を読んでちょっと考えてね!』と回顧談を持ち出してあれやこれやと主張しているわけではありません.(というか多分僕は時代に染まった現代人,であるはずですし)そんなのは権威ある評論家や物事を達観視する世捨て人の仕事であり,Twitterという環境を自らの理想郷(失笑)に変えるために何もせず,何もしないばかりか一時的に逃げ出したやつの意見なんて誰も聞きません.
そもそもこの記事のタイトルは『言い訳』ではないですか(実は忘れていた),読んでくれるだけでも僕は十分に満足で,『まあそういうこともあるよなー知らんけど』と思ってくれる方が1人でもいたら大満足なわけです,こういうことを書いて,ちょっとだけ自分の言い訳が面白くなればいいかなくらいしか考えていないんです.
それじゃ,ま,始めます.
まずはじめに,若干のシステム的な部分も交えながらTwitterの文字数の話をします.
ご存知のとおり,Twitterは1tweetは140文字以内ですね,これが手軽でもあり,面倒でもあることです.140字が多いと思うか少ないと思うかはもちろん人それぞれだとは思うんですが,何か伝えたいことを完全に伝えるには多分,あんまり多くないと思います,もちろん完全に伝えるためには何文字必要かも分からないのですが.他人とreplyで会話するならいくつも続くし,相手の顔色もなんとなく回線上から読み取ることでおそらくそれほど問題はないのですが,問題は通常のtweetですね.140字で上手いこと起承転結させるのは難しいと言わざるを得ないため,伝いたい概念のようなものが複数のtweetに渡るのはよくあることです.しかし,書いた本人が意識していようがしていまいが,人間というのは法則性を見つけ出したい生き物であるがためにいわゆる"文脈"を読んでしまったり,読まれたりしまうのが僕には結構困るんです.それが今回Twitterをちょっと休んでみた原因の1つであるんです.もちろん上手く言語化できない部分もあって,難しくはありながらも何とか書いてみるんですが.多分そんなとこです.手紙は相手が限られているので見せたくない自分を隠すこともできるのですが,Twitterではそうはいきません.@がついていないtweetは誰宛でもないのだということが分かっていながらも,誰宛なんだろうかと推測されてしまうし,推測してしまう自分がいる.そういうことに疲れてしまったのかもしれません.発信した言語,まあ自分自身の情報が多すぎるがゆえに法則を見出そうとしてしまって,それがとても疲れる…今はそんな状態なんだと思われます.
僕がTwitterをはじめた理由を今,曖昧に考えるとすれば多分「さみしかったから」になると思うんですが,僕という人間は本当に贅沢ですね.今では「反応が疲れる」という状態になってしまっているのかもしれません.もちろん,自分のtweetに対して反応してくれるのはすごく嬉しいことであるし,気になる人が自分のことについてtweetしているのを見るのもすごく嬉しいことではあるんです.でも,その嬉しさが嬉しすぎて,何気ないtweetにもそういうものを見出してしまう,そんな自分がつくづく厭になるんですね.別に特定のユーザーが嫌だとか気に入らないとかではなく,ただの自己嫌悪なんです.割と長い間Twitterに住み着いているというのもあって,初めの方はいわゆる『自己承認欲tweet』をしてしまったり,承認して欲しいんだろうなと思われる人に適当に反応していることもありましたが,多分今は違うんですね.そういうのを見るといらいらしてしまうし,そういうのをしたいなーとかある程度の周期で思ってしまう自分,本当に厭になります.
考えてみれば,おそらくtwitterはかなり多くのカテゴリの人間が集まるコミュニティです.芸能人や知識人から,僕みたいな民間人まで,本当に様々な人がいます.その中で,自分が興味ある,とか,自分に似ている,とかいう人を上手いこと探していって楽しむというものであるのですが,そこに個人を明確に区別してしまいはじめたのが最近です.まことに失礼な話ではあるのですが,今までの僕はおそらく,「自分に対して反応してくれるその他大勢」という見方でしかtwitterにいる人のことを見られなかったのだろうと思われます.とりあえず自分に反応してくれて,適当に寂しさを減らしてくれる人々,そんな風にしか見られなかったのだろうと思います,本当に心の冷たい人間ではあるのですが.どうなんでしょう.
それが変わったのが最近でしたね.やっぱり,本当に好き(恋愛的な意味ではなく人間性そのもの)な人ともっとコミュニケーションをしたい,そんな感じです.もちろん,反応してくれる人は全員邪魔かと言われたらそうではないし,むしろそうでも無かった人がそういうカテゴリに入ることもあるのであって,なんという贅沢な人間なのかということですね.きっとこういうツールがない時代であったのなら,相手のことを知ることが出来なさすぎて色々と悩んだのだろうと思われますが,むしろ知りすぎてしまうから悩む,そういう面倒なことになってしまっているんですね.新しく出会った人に自分の中で「この人はこういう人だろう」というイメージを構築することで人間関係は始まっていくのだと思うんですが,どこかでそういうイメージとはずれていきます.現実世界であればちょっと距離を置くとか,別な方法をためすとか,時間が解決してくれるとか,そういう選択肢もありますが,多くの場合,twitterでつながっている人はtwitterでしか繋がっていないわけですね.だから,こいつ嫌いだからちょっと放置してみるか,じゃ済まないわけです.ほとんどの人はリムーブすればそれでもうおしまいなので,現実世界みたいな白が黒に変わったり,黒が白に変わったりすることはほとんど無いんです.別れたらそれで終わり,それが手軽かつ,すごく怖いことであるんですよね.
平安時代などのまだ人間が和歌でコミュニケーションしていた時代は乏しい古典常識を引っ張りだしてみると,確か男女が顔を合わせるということがほとんどなく,和歌での文章一本勝負で意中の相手の気を惹かせるとかそういうことをしていたはずです.twitterでも実際に僕と会った人や,実際に僕と会っていた人は別として,ほとんどの人がTwitterでの文章のみで僕という人間がどういうやつなのかということを判断していることでしょう.面白いですね,1000年も前のコミュニケーションの形が最新技術でも行われているのです.そこで困るのがやっぱり,どれが本当の自分なのかということでしょうね.僕は自分で,現実世界での人格とtwitterを含むインターネット上での人格を変えようと意識していて,現実世界で僕と関係がある人の何人かは「ぜんぜん違う」と言います.どちらが本当の自分なのか僕には分かりませんが,ひとつ怖いのは,相手がどちらの僕を本当の僕なのかと判断するのかということです.まあこんなことはtwitterだけに限らず,コミュニケーションが存在するところではおそらくいつも起こることであるとは思うのですが,現実時代で思ったことをどんどん言ってしまうのとは違って若干ながら考えてtweetする時間が与えられるので,現実世界と違う自分を演じようと思えば演じることができます.
なんとなく気に入った人とは,twitter上だけでのコミュニケーションにとどまらず,実際に会ってみたいと思ってしまいます.実際に会って話をしたらさぞかし楽しいことだろうと思います.いや僕が勝手に思っているだけなのかもしれませんが.

このまま書き続けたら書き続けられないこともないんですが,そろそろ疲れてきたのと,そろそろ同じ話がループしてしまうだろうということからそろそろ終わりにします.書き始めたときは,自分がtwitterをやめた理由が書いていく途中で自ずと見えてきて,ちゃんとした論理展開がある文章が完成するのだろうと思っていたのですが,いざ書いてみると全然違いますね.とりあえず頭に浮かんだ文章をたかたかとキーボードで打つだけですので,しっかりとしたメモも作っていないし,流れにまかせて流れのまま打つというだけなのですが,なんとも面白くないものができあがってしまいました.こんなのは子供の戯言ですね,いや本当.結局はコミュニケーションしたい人とコミュニケーションできない欲求不満から逃げているだけのような気はします.ぼんやりと思っていたのが,twitterするのもつかれたし,これからは今回のような長文をブログに書いてtwitterに投稿して,なんかよく分からない感じで生きていこうと思いましたが,これも不思議なもので,今となってはブログを書くのに疲れて,やっぱりtwitterに戻りたいとかいう思考も浮上してきました.なんて面倒な人間なんだろう自分,と思ってしかたないのですが本当に飽きっぽくて困ります.このような文章をインターネットに投下したところでおそらく黒歴史化するであろうし,意味は無いばかりかむしろマイナスであることが予想されるのですが,数十分前までは短い文章ではなく長いまとまった文章で判断されたいとかほざいていた自分にとって,幸か不幸か内容がない長い文章が誕生してしまったので,とりあえず置いておきます.壮大な痛い文章という名の言い訳がここに誕生してしまいました.
もうtwitterを休む理由もなくなりました,ほとんど吐き出した感じですね,多分すぐ戻ります.

浪人が決まってから

ご存知のとおり,僕はコウコウセイから,ダイガクセイにはなれず,ロウニンセイになったわけです.
語弊は承知のうえですが,今の時代では多くの人が高校生になるわけです,そのうちの何割かが次のステージである,大学生へと進んでいくんですね.
一種のイニシエーションである,大学入試に僕は失敗しました.でも日本はいい国です,浪人という選択肢が一応は残されているわけです.
浪人というのはお金がかかります,しかも自分で費用を捻出できない僕は,親に予備校に通う費用を出してもらうしかないわけです.決して安くはない,むしろ高い,軽自動車くらいなら買えてしまう金額を親に対して背負ってもらうわけです,一種のモラトリアムとして.
こういう言い方はあんまり好きではないのですが,せっかくお金を払うわけです,いや,僕は払えませんね,払ってもらうわけです.
そこでまた僕は考えなくてもいいことを考えつきます.予備校というのは大学に合格しさえすればよいのか,ということですまあ,こんなことはわざわざ聞くまでもありません,たぶんそうです.でも,それじゃもったいない,なぜだかそう思わずはいられないのです.
おそらく多くの人がそうであるように,僕も何らかの自己嫌悪を抱えています.とりあえず現段階でそれは『大学入試に失敗したこと』ではあるのですがそれはとりあえずおいておきましょう,いわゆる性格とかそういう部分をこの1年で変えてみようと漠然と思うのです.
しかしながら,やはり自己というのは自分自身であると同時に四六時中くっついてくるものであるから厄介です.自己の変化というのはおそらくいつもアナログな変化であるでしょうし,下手をしたら変化したことにすら気づけない,そういうものであるでしょう.
そこで,この文章を書くという結論に至るわけです.きっと来年(結果はどうであれ)この文章を見た自分は何か思うはずです.
自分が変われたかどうかの結論はまあ,そこで出すことにしましょう.

浪人が決まった現段階の感情を何とか言語化するのならばきっとそれに1番近い言葉として『怖い』が選択されるはずです.ワクワクやドキドキではない.面白いですね,考えてみれば怖いなんていう感情はきっと,現役のときには思いもつかない感情であったはずであるからです.
これも明確な記録がないので分かりませんが,受験前と後でもきっと,僕の性格というか心とかいうものも何か変化しているはずです.
まずはじめに,身の程を知ることができるようになりました.
周りの風潮のせいにはあまりしたくなくて,もしかしたらそんなものは存在しないのかもしれないのですが現役時の僕にはきっと『謎の自信』というものがあったのだろうと思います.具体的に言うならば,対して勉強していないのに本番にベストが出ると思ったり,自分を唯一無二の天才として疑わなかったり,思いつくものだとこんな感じです.
もちろん,そういうものがないと受験,特に直前期にやっていけねえよ!という人がいると思いますがきっと僕は使い方を間違えました,正しい使い方が何かもよく分からなくはあるのですが.

浪人というのは怖いです.
もちろんこれは浪人いや,大学入試失敗についても言えることであるでしょう.
何かに失敗すると,信条,倫理,経験や過去の自分の行動すべてが不正解になります.正解が何なのかすら分からないはずなのに,です.そんなことはない,たまたまだという人がもちろん存在するとは思うのですが僕はあんまりそうは思えません.敗者が何を言ったところでそれは言い訳という負け惜しみにしかなりません.信憑性が薄れます.せいぜい敗者同士の傷の舐め合いくらいの意味しか持ちません.ここで同時に,この先の文章もすべて負け惜しみであるという布石も打っておくこととしましょう.
色んなことを言う人がいました.僕は完璧に独創的な考えなどないと思っている人間ですのでそうですねつまり,各個人の性格とかそういうものは必ず他人に影響を受けなければ成立しないということです.
そうやって他人の話を聞いたり,他人の文章を読んだりしていわゆる『自己』を形成していくのだろうということです.
よって失敗したことで,周りの環境が自分に与えたすべても極端にいえばまあ,不正解になるわけです.
失敗というのは多分そういう重いものだろうと思います.残念ながら.

過去の事象に,成功または失敗との明確な因果関係があるかどうかは僕には分かりません.すべての成功または失敗には運という要素も執拗につきまとってくるからです.
受験は運だ,という人と,受験は運ではない,という人がいます.もしすべてが運であるのならば努力に意味はありません.もし神とかいう存在を定義するのならば,その存在がサイコロを振れば人生が決まります,もし運という要素が全く介入しないのならば,努力した人は全員合格します.
どちらも正しくありませんよね,でもこれで手詰まりかといえばきっと違うんです.
前のセクションのとおり,失敗は怖いです.できれば失敗したくないから準備や努力をする,しかし困った,どうやら成功や失敗には運とかいう要素がついて回るらしい,どうしようもないじゃないか,ではないということですね,
運の要素が届く割合をできるだけ少なくする,そういう1年にしたいと漠然と思うのです.揺るぎない実力があれば,ちょっとくらい運が混じってきても多分大丈夫です.その揺るぎない実力がなかなかつかないから困るのですが.

とりあえず浪人にするにあたっての所信表明はこんなところにしておきます.まあこんなことチラシの裏に書いてとっておけばいいじゃないかとも思うのですがなかなかそうも思えません,やっぱり誰かに見て欲しいんでしょうね.
これを誰が見ているのかはある程度は推測できるもののやっぱり明確な個人としては正確に特定できません.
まあ笑ってやってくださいという他はないでしょうが.

さあ来年これを見た僕はどう思うでしょうか,笑うか呆れるか…
とりあえず今の僕は,これを書こうと思った数十分前の自分に対して,笑いが止まりません.

創設にあたっての何か

こういう行為は,多分タイムカプセルなんです.
過去の記憶は,過去の事実とは異なるものである,とは誰かが言っていたことではありますが,本当にその通りで.
そういうのを,なんとか回避しつつ,できるかぎり,その時の自分を保存しておきたい…そんな意味合いも含まれてはいるんです,多分.
ここで書いたことを,何週間か,何ヶ月か,何年後かの自分が見たとして,笑うか怒るかあきれるか…,タイムカプセルっていうのは,未来から過去を知るものであると同時に,過去から未来へのメッセージの発信であるとも思うんです.

このページが,インターネット上に無限に溢れる無駄な情報のひとつであると同時に,僕自身にとってはかけがえのないタイムカプセルになることを祈りながら,今ここに,深夜テンションで,ひとつのブログができてしまったというわけです.
それでは,また,どこかで.