たいむかぷせる2

何年か後に見なおして頭を抱えてくなるものたちのあつまり

他人を知ること

     他人の考えを知ることは色んなところで便利であるようです。便利であるというよりも,必須であると言ったほうが正しいのかもしれませんね。途方も無いくらいコミュニケーション力が重視されてしまうこの世の中ではきっと,それも仕方ないことです。コミュニケーションは日本語にむりやり訳すならば「意思伝達」と言ったところで,自分の考えを一方的に伝えるものではありませんから,相手の出方をみて自分自身の行動に反映させていくという過程がどうしても必要になってきてしまいます。
     意識していないことなのですが,ふだん一緒にいる人たちとは,時間をかけてその人の考え方を知り,その人の考え方の行動への表れ方もなんとなくわかってくるので,あまり問題はありません。去年はあんまり意識してこなかったのですが,今年はせっかく色んな新しい出会いもあったので,その辺のことをちょこっとだけ思い出して書いてみようかな,と思います。
     「この人はこういう人である」というイメージをたぶん僕は初対面で作ってしまいますし,そういうイメージを無意識のうちにも作ってしまう人はそんなに少なくはないんじゃないかなといます。これはいわゆるステレオタイプというやつで,一度そういうものが構築されると,それ以降はその人のことをそれを元に判断してしまうそうです。
     でもそのイメージはやっぱり崩れていくんですよね。僕もきっと「初対面の人用」の振る舞いというのを使ってしまっているはずです。それは僕にはじめて会う人でもきっと一緒なのでしょう。なかなか自分というのは変えられなくて,できることなら本当の自分を好きになってほしい。でもそれを初対面から見せるともしかしたら嫌われてしまうかも,そういう葛藤があるんだろうと思います。
     「本当の自分」なんてものがあるのかないのかはわかりません。でもあんまり初対面の人になんでもかんでも見せられませんし,気の置けない友達に「君のコレはちょっとおかしいんじゃないかな」と言われたら,それを隠しておきたくもなりますよね。仲良くなって,その人が隠していたであろう一面を知ってそれで,もっとその人のことを知った気がする,より親密になれた気がする,というのは人間関係の構築の醍醐味の1つでもあると思うのですが。

     僕たちは,人と付き合っていく中で,色んな人を好きになったり嫌いになったりします。でも,それは上述するところの「本当の自分」を見ていることになっているんでしょうか。たぶん,ほとんどの人が「偽りの自分」よりは「本当の自分」を好きになって欲しいはずです。なんでそうなってほしいかはパッと言うことはできませんが,僕が色んな人と接してきたり,色んなものを読んだりする中では,きっとそういうものであるような気がしています。
     そんなわけで,ある人と色々と話して,その人について知る,ということを今回もしたんですけど,やっぱりすごく新鮮でした。自分にとっての「ふつう」がその人にとってはそうではなくて,きっとそれはその人も感じていたことなのでしょう。最初に思っていた,感じていた印象とはどんどん乖離していってしまったんですよね。話していくうちにお互いのことがわかっていって,それでもっとお互いに興味をもって,っていう風になっていけば良かったのかなあ,とは思うんですけどね。難しいです。
     やっぱりこういうものも相互作用なのでしょう。一方的なのはあらゆるコミュニケーションにおいてあんまり好ましくないはずです。独りよがりに好奇心を行使し続けてしまっていても,相手からのレスポンスがないと結局は長続きしないですし,自分の好奇心の源泉のようなものが失われていくように思えます。もちろん,僕という人間がコミュニケーション大好き人間であるというのは原因の1つだとも思うのですが。
     ただもちろん,対人間のコミュニケーションは静的なものではなくて,どんどん変わっていく動的なものです。それぞれの環境によって,どんどん変わっていくものでもあるはずなのです。それがいい方向なのか悪い方向なのかはわかりませんけどね。