ぼくと大人と新幹線と
小さい頃から,ぼくは新幹線が好きでした。特に好きだったのは住んでいた愛知県を走る東海道新幹線で,幼いときはずっと「のりもの図鑑」や「でんしゃ図鑑」を読んでいました。
子どもはやっぱり大好きな新幹線に乗ったり,見てみたりしてみたいものです。けれどぼくの家は新幹線の線路からは遠く離れていましたし,母親の実家はぼくの家から車で20分ほど。なかなか乗る機会はありませんでした。
生まれて初めて新幹線に乗ったときのことは,今も覚えています。家族旅行で関西に行くときのことでした。家族4人で1区間だけ新幹線に乗ったのです。今思うと家族4人で新幹線で移動,というのはかなりの出費だったことでしょう。たしか100系だったかな。
新幹線が大好きなぼくに見かねて乗せてくれた母親には感謝ですね。
そんな中で,ぼくにとっての新幹線はやはり「特別」であり続けたのです。特別なときにしか,ぼくは新幹線に乗れなかったからです。
それは常に旅行や大事な移動を含んでいました。あるコンテストの授賞式で,修学旅行で,部活の遠征などなど。愛知県に住むぼくにとって,関西や関東への移動はいつも新幹線でした。
乗っているときは,それはそれは興奮していたことと思います。無駄に車内をウロウロしたり,普段の電車の2~3倍の速さで移りゆく景色にわくわくしたりしていました。
しかし,そんなに「特別」だった新幹線が,今はそうではなくなってしまいました。あまりにも新幹線が身近になりすぎてしまったからです。
東京に住むことになったぼくは,愛知に帰省するのにほぼいつも新幹線を利用します。それはほぼ数ヶ月に一度のペースで,乗る列車や区間もいつも同じです。
新幹線に乗るのにわくわくすることは減っていきました。景色も見ずに寝ること,Macをぽちぽちすることが増えました。
けれどひょっとしたら,それが「成長」とか「大人になる」ということなのかもしれませんね。「特別」だったものが,「特別」ではなくなっていくということ。わくわくしなくなること。
ぼくがこれから先どんどん年を取っていくにつれて,そういう経験はもっともっと増えていくことでしょう。そしてそれがきっと「人生」というものなのです。
なるべくならすべてのものに「わくわく」とか「はじめて」を感じていたいんですけどね。どうやらそういうわけにもいかないようです。
ぼくが「特別」だと思っているものが,あの人には「特別」ではない,というのは,ぼくにとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。*1つまりぼくの「特別」があの人にとっては「自然」であるということ。
忙しそうにPCを開いて新幹線に乗っているビジネスマン,スーツケースを転がしながら新幹線に乗る若者。ぼくはそんなところに「大人」を感じていたのです。
そしてぼくはそんな「大人」に憧れていました。21歳という法律上は「大人」であることを求められる今であっても,ぼくはそういう「大人」に憧れています。
できることならば,そういう「大人」になりたい。ちょっと恥ずかしくて意識高いけれど,そう思うのです。ときどき新幹線に乗ると見かける,ぼくより若い子供たちにどう見られているのでしょうか。
そういえばかなり前に見たマクドナルドのチラシでこんなものがありました。
昔見たときはあまり意味がよくわからなかったけれど,今ならなんとなく言いたいことがわかるコピーです。ぼくも「ちっちゃなとき見た」あの大人になれているでしょうか。
もちろん小さな子どもというのは大人の「いいところ」しか見ませんし想像しません。子どもが思っているよりつらいことはたくさんあります。ぼくの年齢でそうなのですから,もっと年が多い大人ではなおさらでしょう。
10年後くらいにこの文章を読み返したら,どんなことを思うのでしょう。ちょっとだけ楽しみです。
そんなことを新幹線の中で「シンカンセンスゴクカタイアイス」を食べながら書き始めました。アイスは硬かったけど,美味しかったです。
*1:「あの人たちは、私の知らない楽しみ方を、心から知っている」というのは、私にとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。