最高の夏を過ごすためには
夏休みになりました。実際には7/30から夏休みだったんですけど,まあ色々と一段落ついたのでちょっと何か書こうかなって思います。
大学生というのは人生でいうと最初で最後の夏休み期間だから,しっかり楽しんでおくように!みたいなものをときどき読みます。大学生の夏休みっていうのはそれの夏休み期間なのであって,きっと何事にも代えがたく楽しいのでしょうね。
夏休みが始まってから明日で1週間が経ちます。夏休み最初の週だけでもたくさんのことができました。挙げてみると,カラオケ,オール飲み,川遊び,麻雀などなど,余暇があったらやりたい!みたいなことのほとんどができたように思えます。
コレが大学生っぽい夏休み!なのかどうかはよくわかりませんけど,毎日楽しいし,きっとこういう時間の使い方もアリなのでしょう。
「意識高い」大学生であることがいいか悪いかについては,ここ最近だとたくさんの議論がありますね。なんで「意識高い」大学生を半ば冷笑したように見る人たちが一定数存在するのかは今もよくわかりません(僕がどっち側なのかもあんまりよくわかりませんけど)。
例えばインターンに行ったりとか,たくさんアルバイトをしたりとか,ボランティアをしたりとか,色んな夏の過ごし方があると思います。
社会に出るために,社会に出る前から色々と準備しておくことはおそらく必要なことなのでしょう。何事にも準備は必要であると言いますしね。でも,僕はやっぱりそれはあんまり早いうちからやらなくてもいいんじゃないかな,とも思うんです。
結論から言うと,この夏はまだまだモラトリアム期間として過ごすことにしました。もちろん僕は諸事情からアカデミックな世界で生きていくことをやめるつもりなので,社会に出て普通にサラリーをもらって生きていくことになるでしょう。だから社会人になるための練習は必要であるようにも思えます。
(ここからはきっと意識高い(笑)の話が続きますが)
でも,やっぱり考えなおしてみて,普通の大学生がやっていることをあんまりしたくはないです。上に挙げたような夏の過ごし方はやっぱりほとんどの大学生が考えつきそうなもので,そうやっては過ごしたくない。最近はそう思っています。
お金のことを考えず,自分の興味関心の赴くままにやりたいことだけやっていられる今の毎日に感謝はするべきなのでしょう。今は色んなことをつまみ食いし続ける毎日です。
Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
とJobsも言っていたことですし。まあラフに要約すると「今やっっていることが未来でつながると信じなければならない」「この方法が間違っていたことはないし,私の人生を変えた」といったところでしょうか。
普通の人になりたくない,っていうのが割とずっと僕の中でありました。中学生くらいに思い始めたことであって,たぶんコレを今言うと厨二病(笑)であったり意識高い(笑)であったりと各方面から冷笑を買うんでしょうけど,やっぱりそう思ってしまいます。
夏休みの最後の日に,それほど悪くなかったなあと思える夏休みだったらいいかな,と思います。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
Web上に公開するからには絶対に読み手の事を真っ先に考えて,読む人が楽しい文章を書くのが最も重要である,とはずっと思っています。
でも今回の文章を読むと,完全に日記というか,自分の決意というだけであって,傍から見ても全くおもしろくはありませんね。誰が楽しいのかといえば,せいぜいいるかどうかわからない僕のファンくらいなものです。
同時にこの夏には,可能な限り毎日ブログを更新していくことにしました。やっぱり文章を書くチカラを伸ばしていきたい,というのが最近の毎日の目標のなかでは大きいような気がするのです。
書くチカラを伸ばすにはやっぱり,書くしかないでしょう。しかもチラシの裏に書くのではなく,誰か読み手のことを考えて,きちんとWeb上に公開しなければダメだと思うのです。
きっとこのコンテンツは有限なネットワークにおいてゴミのような役割しか果たさないだろうし,コレが将来的に黒歴史になることなんてわかりきった未来なんでしょうけど,もう少しお付き合いくださると嬉しいです。
次回からは独りよがりな文章をやめて,もう少し読み手の視点に立ったものを書いていけたら,と思います。
インターネットが狭くなってしまった
こういう話をすると懐古厨って言われるような気がするのですが,今回は僕がTwitterを始めたころの話をしようと思います。あの頃とはTwitterの使われ方,自分の周りにいる人,などなどがどんどん変わってきて,生きにくくも生きやすくもなってきました。僕がTwitterをはじめてから4.5年くらい経ちました。暮らしのほとんどをTwitterと一緒にいるので,そろそろ振り返ってみてもいい頃でしょう。
僕がTwitterをはじめた2009年の12月で,まわりでTwitterをやっている人はほとんどいませんでした。その頃Twitterは「ミニブログ」とか「マイクロブログ」と呼ばれていて,ああやっぱりこれは新しい分野なんだなあ,と思った記憶があります。なんで始めたのかはあんまり覚えていませんけど,「マイクロブログ」と聞いたからだったと思います。その頃にも今思うと頭を抱えたくなるような(もう消してしまいましたけど)ブログを開設していて,もっと気軽に更新できればいいなあ,くらいに思っていたんだったかと思います。今だとそんな言い方をすることはほとんどなくて,もう「Twitter」という分野が確立してしまいましたよね。
今のように,仲間を見つけるための機能はそれほど発達しているわけではありませんでした。なるべくなら自分と似通っている人を探したいんですけど,そのための手段がありません。自分が興味を持っている言葉で検索して,出てきた人をフォローしたり,「#followme」や「#followmeJP」なんていうハッシュタグが使われていたりと,広いインターネットという世界で仲間を探す,みたいにわくわくした覚えがあります。今調べてみると,公式RTの日本での実装が2010年1月22日ですから,僕が始めた頃に公式RTはなかったんですね。
Twitterを始めてから,色んな人に出会いました。はじめの頃は,起業家や主婦,プログラマや弁護士の方など,普通に生きていたら出会わないだろうなあという人たちとたくさん出会えて楽しかったのを覚えています。僕が自分とは違う人生を送っている人に興味をもつように,彼らも僕に興味を持ってくれていたのでしょう(自意識過剰なのかもしれませんけど)。
「自分の生活に興味を持ってくれている」とか「自分の存在を楽しんでくれている」顔も知らない人が画面の向こう側にいる,というのは,自己承認欲求をこじらせた高校生の僕にとっては,とてつもなく面白いものとなっていました。ちょうどその頃は高校で勉強や人間関係がうまく行かなかった頃で,無意識のうちに逃げ道だったり第二の世界だったりを探していたのでしょう。少なくとも,同年代ばかりの高校という閉じたコミュニティよりは広い世界です。
しばらくすると,同年代の仲間もたくさん見つかるようになりました。基本的には志望校を同じくする仲間がほとんどで,なんか色々とアカデミック(もちろん高校生なりに,ですけど)な話をしていたんだったかと思います。もちろんアカデミックな話以外もたくさんしましたね。いわゆる「ツイ廃」と呼ばれる人がたくさんいて,自分もそのひとりでした。日本中に自分の知り合いがいて,タイムラインという情報を共有して,回線を通して繋がっている。そういうのも,まさにインターネットという感じでわくわくしていたような気がします。
自らの日常を意味もなくtweetして,それに対して反応をもらって,みんなでわいわいする。そんな感じのものだったかと思います。しかもその人たちは日本全国にいる。各地での文化や考え方の違いに触れることも多かったです。大人数でSkype通話したこともありましたね。夏のオープンキャンパスでオフ会をしたことも印象に残っています。
その頃はまだまだスマートフォンは発達していなくて,僕もほとんどのtweetを携帯電話(今で言うところのガラケーですか)から行っていました。もちろんインターネット以外で知り合った人以外とのやりとりは携帯電話のキャリアメールが中心です。コレは前にも書いたことですけど,メールは手紙中心であり,何らかの明確な用事がないと相手には送りづらいものです。基本的には1対1のコミュニケーションですしね。対してTwitterはそうではありません。形容するならば1対多数か,多数対1といったところでしょうか。特定の相手に向けているわけではないメッセージに,何人かが反応してくれる.そういうものであったのでした。
でも今だとたぶん多くの人は,さっき僕が示したような使い方はしていないと思います。もちろん,僕が最初のアカウントでフォローしている人はそうではない人が多いんですが,日常生活の延長,みたいになっている人が多くなりました。簡単に個人を特定できるプロフィールを書いて,仲間内の延長,みたいなことをTwitterでやっている。まあ別にそれが悪いことってわけじゃないんですけど。
アカウントを分けるのは甘え,みたいに思っている時期が僕にもありました。謎の意地でアカウントを長い間分けてこなかったのですが,ついに屈してしまって,サークル用アカウントを作ってしまいました。tweet内容があまりにも狭いコミュニティの中で閉じていることばかりで,色んな人がフォローしてくれているいわゆる「本垢」のTLでは不適切なのかな,と思ったからです。
24時間同じ人たちとつながっていることは果たして幸せなんでしょうか?とも最近は思います。実際に会わないのに,インターネットを通して24時間つながってしまっていて,そこでも馴れ合いをし続けている。コレは前にも書いたことですけど,メール以前のコミュニケーション手段が「明確にその相手がいる」ことに対して,Twitterはそうではないですからね。構ってほしかったら,誰かが構ってくれます。
ほとんどが顔見知りの中で構成されるコミュニティであって,新しい人が追加されるとしてもそれは,実際に会った人であることが多いです。ちょっとその気になれば会いにいける人たちばっかりで,それ以上広がることはあまりない。
でもやっぱり24時間つながらざるをえない,そういうシチュエーションにはなってしまっているんじゃないかなとは思います。だれかの適当な一言で,そのTLにいる人達が一斉に反応して,連鎖的にその話題が続いていくという「流れ」にはやっぱり参加したい,と思ってしまうものです。それに,なにかどこかへ行く企画が立ち上がっていたのに,Twitterをやらないことによって乗り遅れてしまった,というのを恐れる人は結構いそうです。
そんな感じでインターネットは狭くなってしまった,と書きつつも,Twitterが狭くなってしまった話をしてしまいました。やっぱり,そろそろ色んな人がTwitterをやりすぎて,わざわざ仲間を探しに行かなくても,狭い世界の中で楽しめるようになってしまった,っていうのはありそうですね。
それが幸せなのかどうなのか,あんまりわかりませんけど。
他人を知ること
他人の考えを知ることは色んなところで便利であるようです。便利であるというよりも,必須であると言ったほうが正しいのかもしれませんね。途方も無いくらいコミュニケーション力が重視されてしまうこの世の中ではきっと,それも仕方ないことです。コミュニケーションは日本語にむりやり訳すならば「意思伝達」と言ったところで,自分の考えを一方的に伝えるものではありませんから,相手の出方をみて自分自身の行動に反映させていくという過程がどうしても必要になってきてしまいます。
意識していないことなのですが,ふだん一緒にいる人たちとは,時間をかけてその人の考え方を知り,その人の考え方の行動への表れ方もなんとなくわかってくるので,あまり問題はありません。去年はあんまり意識してこなかったのですが,今年はせっかく色んな新しい出会いもあったので,その辺のことをちょこっとだけ思い出して書いてみようかな,と思います。
「この人はこういう人である」というイメージをたぶん僕は初対面で作ってしまいますし,そういうイメージを無意識のうちにも作ってしまう人はそんなに少なくはないんじゃないかなといます。これはいわゆるステレオタイプというやつで,一度そういうものが構築されると,それ以降はその人のことをそれを元に判断してしまうそうです。
でもそのイメージはやっぱり崩れていくんですよね。僕もきっと「初対面の人用」の振る舞いというのを使ってしまっているはずです。それは僕にはじめて会う人でもきっと一緒なのでしょう。なかなか自分というのは変えられなくて,できることなら本当の自分を好きになってほしい。でもそれを初対面から見せるともしかしたら嫌われてしまうかも,そういう葛藤があるんだろうと思います。
「本当の自分」なんてものがあるのかないのかはわかりません。でもあんまり初対面の人になんでもかんでも見せられませんし,気の置けない友達に「君のコレはちょっとおかしいんじゃないかな」と言われたら,それを隠しておきたくもなりますよね。仲良くなって,その人が隠していたであろう一面を知ってそれで,もっとその人のことを知った気がする,より親密になれた気がする,というのは人間関係の構築の醍醐味の1つでもあると思うのですが。
僕たちは,人と付き合っていく中で,色んな人を好きになったり嫌いになったりします。でも,それは上述するところの「本当の自分」を見ていることになっているんでしょうか。たぶん,ほとんどの人が「偽りの自分」よりは「本当の自分」を好きになって欲しいはずです。なんでそうなってほしいかはパッと言うことはできませんが,僕が色んな人と接してきたり,色んなものを読んだりする中では,きっとそういうものであるような気がしています。
そんなわけで,ある人と色々と話して,その人について知る,ということを今回もしたんですけど,やっぱりすごく新鮮でした。自分にとっての「ふつう」がその人にとってはそうではなくて,きっとそれはその人も感じていたことなのでしょう。最初に思っていた,感じていた印象とはどんどん乖離していってしまったんですよね。話していくうちにお互いのことがわかっていって,それでもっとお互いに興味をもって,っていう風になっていけば良かったのかなあ,とは思うんですけどね。難しいです。
やっぱりこういうものも相互作用なのでしょう。一方的なのはあらゆるコミュニケーションにおいてあんまり好ましくないはずです。独りよがりに好奇心を行使し続けてしまっていても,相手からのレスポンスがないと結局は長続きしないですし,自分の好奇心の源泉のようなものが失われていくように思えます。もちろん,僕という人間がコミュニケーション大好き人間であるというのは原因の1つだとも思うのですが。
ただもちろん,対人間のコミュニケーションは静的なものではなくて,どんどん変わっていく動的なものです。それぞれの環境によって,どんどん変わっていくものでもあるはずなのです。それがいい方向なのか悪い方向なのかはわかりませんけどね。
プログラミングってなんだろう,を情報科から
正式に情報科に配属になりました.思っていたよりコマは埋まっていなくて,なんだか自分の勉強ができそうな反面,大学生ってこんなものなのかなあと同時に思う毎日でもあるのです.せっかく4月ですし,情報科学生にとってきっと欠かせない「プログラミング」が僕にとってどういう意味をもっていて,これからどういう意味を持っていくであろうか,ちょっと書いてみます.これも4月病の1つであるとは思うのですが.
アラームをかけずに寝て起きたら,午前中が消滅していた
これが今朝おきた惨劇です.今朝,というのが「朝」を指すのならば,一生に一度しか訪れない2014年3月5日の午前中は,ぐうぐう寝ることによって消滅してしまったということになります.遺憾ですね,非常に遺憾です.
家庭教師はやった方がいいけど,やめた方がいいよ
家庭教師のアルバイトを4月頃から始めたんですが,ちょっと前にやめたというか,クビになりました.今までの総評というか,これから家庭教師のアルバイトを始めたい人向けに少し伝えておきたいこともありますので,書くことにします.なるべく文句にならないように書きますが,文句になったらごめんなさい.あらかじめ謝っておきます.可能な限り中立的な立場で,メリットとデメリットの双方を書くことにします.
以下の文章はタイトルと全く関係がないので,読む必要はないです.
堕落した今日1日の話
やる気がうまい具合に出るかどうかはまた別の話として,やらなければいけないことはやらなければいけません,今回の僕に関してはそれは「試験に対する課題」という風に定義づけることができるでしょうか.
適当に書き始めたら大体書くことがなくなったのでそろそろ終わりにしようと思います.いい息抜きになってくれたらいいと思って書き始めてから今で大体30分くらいでしょうか.無駄に長い文章をある程度高速で書くというのは苦手ではないので,ときどき息抜きにこういう文章も書くのです.そういえばサークルの部誌の原稿がまだ途中かけだったような気がしますが気付かなかったことにしましょう.