たいむかぷせる2

何年か後に見なおして頭を抱えてくなるものたちのあつまり

わかりやすいが1番えらい

     わかりにくいものが多いなあ,なんてことを最近は思います。誰かを騙すとかなら(複雑なスマートフォンの料金設定とか)難しくするのもいいんでしょうけど,あんまり難しくしてもなあ,なんてことを思います。
     少し前から,なにか文章を書いたり,人前で話したりするときは,なるべくわかりやすくしよう,というのを意識しています。どういう風にわかりやすくするかは今も明確に決まっているわけではありません。たとえば文章だったら,ひらがなや改行を増やしたり,難しい言い回しを避けたりしています。
     コレを誰が読んでくれるのか?考えるのは大事なんだ,ということを色んなところで話したり書いたりしてきました。もちろん誰にでもわかるようにするのは難しいので,いつもは自分と同じくらいの年代の人,を想定して書いています。でも,今の感じだと誰にでも読みやすいんじゃないかな,とも思っています。自画自賛かもしれませんね。

     なんでそういう風にしているかというと,やっぱりちゃんと伝わらないと困るからです。コレは僕に限った話ではなくて,何かを書いたり話したりするとき,っていうのは「なにか伝えたいこと」が絶対に存在するはずです。それがなかったら,そもそも書く必要はありませんもんね。
     ときどき「こんな文章は自己満足なんだから,俺は自分の好きなように書く。読み手のことなんて知ったことか!」みたいな人も見ますけど,やっぱり色んな人が読んでくれて,自分の発信したいことをなるべくそのまま受け取ってくれる,っていうのは嬉しいことだと思います。
     なんか教科書とか専門書とか,明らかに読者が限定されている場合ならアレコレ難しく書いてもいいでしょう。でもこうやって誰でも見られるようにインターネット上に公開するかぎりは,誰でも受け取れるようにしよう,と思っています。読んでくれる人がいてこそ,のものですから。

     ここまで考えて,でも間違って伝わってたらどうしよう?とも考えました。どれだけわかりやすく書いたところで,間違って受け取ってしまう人は何人かはいそうですよね。
     今のところはそれをどうすればいいかはよくわかりません。そもそも,こんな辺境のブログでは,批判も糾弾も受けることはほとんどありません。「なんかわけわかんないこと書いてるなあ」くらいのものでしょう。実際に正しく伝わっているかどうか,知りようがないんですね。
     自分が本当に伝えたかったこととは違う解釈のされかたをしてしまって,間違った風にとられてしまう。こういうことは意外と最近の世の中ではたくさんあるようです。必ずしも発信したことがすべてそのまま伝えられるわけではありませんからね。
     でも,それも仕方ないのかな,とも思うんです。それはやっぱり解釈の自由に依存してしまう。やっぱり書いた瞬間に,その文章は自分の手を少しだけ,ふわりと浮いていってしまう感じはしています。自信を持って公開したのなら後は,そのポテンシャルを信じるのみです。
     さっき「なにか伝えたいこと」があるから文章を書いたり,何かを発信したりするのだ,と書きました。でも,それは作者から一意的に定められるものではなさそうです。一見すると一方通行のように見える,こういう文章でも,やっぱり僕は相互作用がある,と思いたいです。
     なんとかがんばって「なにか伝えたいこと」を文章にする。でもそれは大抵の場合はうまくいかなくて,全部を伝えることはできないですよね。そこから自分について,伝えたかったことについて,新しく発見する。せっかく普通の本と違って,ちょっとくらいは書き手と読み手の距離が近いので,そういうことをして,成長していけたらいいな,とも思います。僕なんてまだまだアマチュアのアマチュアみたいなものですからね。
     なかなか自分の文章に対するフィードバックが得られないのが歯がゆい毎日ですが,基本的にはTwitterで140文字で言っていることをふくらませているだけです。だからもらえる反応もたぶん似たようなことなのでしょう。

     毎日ブログを更新するぞ!と8月病(そんなものがあるとすれば)で意気込んでみましたが,やっぱりコレだというネタがないときにひねり出して書くと,自分なりにもあんまりいいものができた感じはしませんね。
     そんな中途半端なものを公開するなよ,って怒られそうなものでもありますが,せっかく書き上がってしまったものは仕方ないですね,ごめんなさい。これでも読み手のことを考えて,なるべく面白いものを書こう,とは思っているつもりなのですが。
     なにかを書いていると,その途中に「ああコレも書こう」とか「実はコレについては書けないんじゃない?」って思うことが多くて大変です。
     この夏が終わった後に見返して,少しはおもしろいものができるんでしょうか。

最高の夏を過ごすためには

     夏休みになりました。実際には7/30から夏休みだったんですけど,まあ色々と一段落ついたのでちょっと何か書こうかなって思います。
     大学生というのは人生でいうと最初で最後の夏休み期間だから,しっかり楽しんでおくように!みたいなものをときどき読みます。大学生の夏休みっていうのはそれの夏休み期間なのであって,きっと何事にも代えがたく楽しいのでしょうね。
     夏休みが始まってから明日で1週間が経ちます。夏休み最初の週だけでもたくさんのことができました。挙げてみると,カラオケ,オール飲み,川遊び,麻雀などなど,余暇があったらやりたい!みたいなことのほとんどができたように思えます。
     コレが大学生っぽい夏休み!なのかどうかはよくわかりませんけど,毎日楽しいし,きっとこういう時間の使い方もアリなのでしょう。
     「意識高い」大学生であることがいいか悪いかについては,ここ最近だとたくさんの議論がありますね。なんで「意識高い」大学生を半ば冷笑したように見る人たちが一定数存在するのかは今もよくわかりません(僕がどっち側なのかもあんまりよくわかりませんけど)。
     例えばインターンに行ったりとか,たくさんアルバイトをしたりとか,ボランティアをしたりとか,色んな夏の過ごし方があると思います。
     社会に出るために,社会に出る前から色々と準備しておくことはおそらく必要なことなのでしょう。何事にも準備は必要であると言いますしね。でも,僕はやっぱりそれはあんまり早いうちからやらなくてもいいんじゃないかな,とも思うんです。
     結論から言うと,この夏はまだまだモラトリアム期間として過ごすことにしました。もちろん僕は諸事情からアカデミックな世界で生きていくことをやめるつもりなので,社会に出て普通にサラリーをもらって生きていくことになるでしょう。だから社会人になるための練習は必要であるようにも思えます。
     (ここからはきっと意識高い(笑)の話が続きますが)
     でも,やっぱり考えなおしてみて,普通の大学生がやっていることをあんまりしたくはないです。上に挙げたような夏の過ごし方はやっぱりほとんどの大学生が考えつきそうなもので,そうやっては過ごしたくない。最近はそう思っています。
     お金のことを考えず,自分の興味関心の赴くままにやりたいことだけやっていられる今の毎日に感謝はするべきなのでしょう。今は色んなことをつまみ食いし続ける毎日です。

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.

     とJobsも言っていたことですし。まあラフに要約すると「今やっっていることが未来でつながると信じなければならない」「この方法が間違っていたことはないし,私の人生を変えた」といったところでしょうか。
     普通の人になりたくない,っていうのが割とずっと僕の中でありました。中学生くらいに思い始めたことであって,たぶんコレを今言うと厨二病(笑)であったり意識高い(笑)であったりと各方面から冷笑を買うんでしょうけど,やっぱりそう思ってしまいます。
     夏休みの最後の日に,それほど悪くなかったなあと思える夏休みだったらいいかな,と思います。
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     Web上に公開するからには絶対に読み手の事を真っ先に考えて,読む人が楽しい文章を書くのが最も重要である,とはずっと思っています。
     でも今回の文章を読むと,完全に日記というか,自分の決意というだけであって,傍から見ても全くおもしろくはありませんね。誰が楽しいのかといえば,せいぜいいるかどうかわからない僕のファンくらいなものです。
     同時にこの夏には,可能な限り毎日ブログを更新していくことにしました。やっぱり文章を書くチカラを伸ばしていきたい,というのが最近の毎日の目標のなかでは大きいような気がするのです。
     書くチカラを伸ばすにはやっぱり,書くしかないでしょう。しかもチラシの裏に書くのではなく,誰か読み手のことを考えて,きちんとWeb上に公開しなければダメだと思うのです。
     きっとこのコンテンツは有限なネットワークにおいてゴミのような役割しか果たさないだろうし,コレが将来的に黒歴史になることなんてわかりきった未来なんでしょうけど,もう少しお付き合いくださると嬉しいです。
     次回からは独りよがりな文章をやめて,もう少し読み手の視点に立ったものを書いていけたら,と思います。

インターネットが狭くなってしまった

     こういう話をすると懐古厨って言われるような気がするのですが,今回は僕がTwitterを始めたころの話をしようと思います。あの頃とはTwitterの使われ方,自分の周りにいる人,などなどがどんどん変わってきて,生きにくくも生きやすくもなってきました。僕がTwitterをはじめてから4.5年くらい経ちました。暮らしのほとんどをTwitterと一緒にいるので,そろそろ振り返ってみてもいい頃でしょう。
     僕がTwitterをはじめた2009年の12月で,まわりでTwitterをやっている人はほとんどいませんでした。その頃Twitterは「ミニブログ」とか「マイクロブログ」と呼ばれていて,ああやっぱりこれは新しい分野なんだなあ,と思った記憶があります。なんで始めたのかはあんまり覚えていませんけど,「マイクロブログ」と聞いたからだったと思います。その頃にも今思うと頭を抱えたくなるような(もう消してしまいましたけど)ブログを開設していて,もっと気軽に更新できればいいなあ,くらいに思っていたんだったかと思います。今だとそんな言い方をすることはほとんどなくて,もう「Twitter」という分野が確立してしまいましたよね。


     今のように,仲間を見つけるための機能はそれほど発達しているわけではありませんでした。なるべくなら自分と似通っている人を探したいんですけど,そのための手段がありません。自分が興味を持っている言葉で検索して,出てきた人をフォローしたり,「#followme」や「#followmeJP」なんていうハッシュタグが使われていたりと,広いインターネットという世界で仲間を探す,みたいにわくわくした覚えがあります。今調べてみると,公式RTの日本での実装が2010年1月22日ですから,僕が始めた頃に公式RTはなかったんですね。
     Twitterを始めてから,色んな人に出会いました。はじめの頃は,起業家や主婦,プログラマや弁護士の方など,普通に生きていたら出会わないだろうなあという人たちとたくさん出会えて楽しかったのを覚えています。僕が自分とは違う人生を送っている人に興味をもつように,彼らも僕に興味を持ってくれていたのでしょう(自意識過剰なのかもしれませんけど)。
     「自分の生活に興味を持ってくれている」とか「自分の存在を楽しんでくれている」顔も知らない人が画面の向こう側にいる,というのは,自己承認欲求をこじらせた高校生の僕にとっては,とてつもなく面白いものとなっていました。ちょうどその頃は高校で勉強や人間関係がうまく行かなかった頃で,無意識のうちに逃げ道だったり第二の世界だったりを探していたのでしょう。少なくとも,同年代ばかりの高校という閉じたコミュニティよりは広い世界です。
     しばらくすると,同年代の仲間もたくさん見つかるようになりました。基本的には志望校を同じくする仲間がほとんどで,なんか色々とアカデミック(もちろん高校生なりに,ですけど)な話をしていたんだったかと思います。もちろんアカデミックな話以外もたくさんしましたね。いわゆる「ツイ廃」と呼ばれる人がたくさんいて,自分もそのひとりでした。日本中に自分の知り合いがいて,タイムラインという情報を共有して,回線を通して繋がっている。そういうのも,まさにインターネットという感じでわくわくしていたような気がします。
     自らの日常を意味もなくtweetして,それに対して反応をもらって,みんなでわいわいする。そんな感じのものだったかと思います。しかもその人たちは日本全国にいる。各地での文化や考え方の違いに触れることも多かったです。大人数でSkype通話したこともありましたね。夏のオープンキャンパスでオフ会をしたことも印象に残っています。
     その頃はまだまだスマートフォンは発達していなくて,僕もほとんどのtweetを携帯電話(今で言うところのガラケーですか)から行っていました。もちろんインターネット以外で知り合った人以外とのやりとりは携帯電話のキャリアメールが中心です。コレは前にも書いたことですけど,メールは手紙中心であり,何らかの明確な用事がないと相手には送りづらいものです。基本的には1対1のコミュニケーションですしね。対してTwitterはそうではありません。形容するならば1対多数か,多数対1といったところでしょうか。特定の相手に向けているわけではないメッセージに,何人かが反応してくれる.そういうものであったのでした。


     でも今だとたぶん多くの人は,さっき僕が示したような使い方はしていないと思います。もちろん,僕が最初のアカウントでフォローしている人はそうではない人が多いんですが,日常生活の延長,みたいになっている人が多くなりました。簡単に個人を特定できるプロフィールを書いて,仲間内の延長,みたいなことをTwitterでやっている。まあ別にそれが悪いことってわけじゃないんですけど。
     アカウントを分けるのは甘え,みたいに思っている時期が僕にもありました。謎の意地でアカウントを長い間分けてこなかったのですが,ついに屈してしまって,サークル用アカウントを作ってしまいました。tweet内容があまりにも狭いコミュニティの中で閉じていることばかりで,色んな人がフォローしてくれているいわゆる「本垢」のTLでは不適切なのかな,と思ったからです。
     24時間同じ人たちとつながっていることは果たして幸せなんでしょうか?とも最近は思います。実際に会わないのに,インターネットを通して24時間つながってしまっていて,そこでも馴れ合いをし続けている。コレは前にも書いたことですけど,メール以前のコミュニケーション手段が「明確にその相手がいる」ことに対して,Twitterはそうではないですからね。構ってほしかったら,誰かが構ってくれます。
     ほとんどが顔見知りの中で構成されるコミュニティであって,新しい人が追加されるとしてもそれは,実際に会った人であることが多いです。ちょっとその気になれば会いにいける人たちばっかりで,それ以上広がることはあまりない。
     でもやっぱり24時間つながらざるをえない,そういうシチュエーションにはなってしまっているんじゃないかなとは思います。だれかの適当な一言で,そのTLにいる人達が一斉に反応して,連鎖的にその話題が続いていくという「流れ」にはやっぱり参加したい,と思ってしまうものです。それに,なにかどこかへ行く企画が立ち上がっていたのに,Twitterをやらないことによって乗り遅れてしまった,というのを恐れる人は結構いそうです。


そんな感じでインターネットは狭くなってしまった,と書きつつも,Twitterが狭くなってしまった話をしてしまいました。やっぱり,そろそろ色んな人がTwitterをやりすぎて,わざわざ仲間を探しに行かなくても,狭い世界の中で楽しめるようになってしまった,っていうのはありそうですね。
それが幸せなのかどうなのか,あんまりわかりませんけど。

他人を知ること

     他人の考えを知ることは色んなところで便利であるようです。便利であるというよりも,必須であると言ったほうが正しいのかもしれませんね。途方も無いくらいコミュニケーション力が重視されてしまうこの世の中ではきっと,それも仕方ないことです。コミュニケーションは日本語にむりやり訳すならば「意思伝達」と言ったところで,自分の考えを一方的に伝えるものではありませんから,相手の出方をみて自分自身の行動に反映させていくという過程がどうしても必要になってきてしまいます。
     意識していないことなのですが,ふだん一緒にいる人たちとは,時間をかけてその人の考え方を知り,その人の考え方の行動への表れ方もなんとなくわかってくるので,あまり問題はありません。去年はあんまり意識してこなかったのですが,今年はせっかく色んな新しい出会いもあったので,その辺のことをちょこっとだけ思い出して書いてみようかな,と思います。
     「この人はこういう人である」というイメージをたぶん僕は初対面で作ってしまいますし,そういうイメージを無意識のうちにも作ってしまう人はそんなに少なくはないんじゃないかなといます。これはいわゆるステレオタイプというやつで,一度そういうものが構築されると,それ以降はその人のことをそれを元に判断してしまうそうです。
     でもそのイメージはやっぱり崩れていくんですよね。僕もきっと「初対面の人用」の振る舞いというのを使ってしまっているはずです。それは僕にはじめて会う人でもきっと一緒なのでしょう。なかなか自分というのは変えられなくて,できることなら本当の自分を好きになってほしい。でもそれを初対面から見せるともしかしたら嫌われてしまうかも,そういう葛藤があるんだろうと思います。
     「本当の自分」なんてものがあるのかないのかはわかりません。でもあんまり初対面の人になんでもかんでも見せられませんし,気の置けない友達に「君のコレはちょっとおかしいんじゃないかな」と言われたら,それを隠しておきたくもなりますよね。仲良くなって,その人が隠していたであろう一面を知ってそれで,もっとその人のことを知った気がする,より親密になれた気がする,というのは人間関係の構築の醍醐味の1つでもあると思うのですが。

     僕たちは,人と付き合っていく中で,色んな人を好きになったり嫌いになったりします。でも,それは上述するところの「本当の自分」を見ていることになっているんでしょうか。たぶん,ほとんどの人が「偽りの自分」よりは「本当の自分」を好きになって欲しいはずです。なんでそうなってほしいかはパッと言うことはできませんが,僕が色んな人と接してきたり,色んなものを読んだりする中では,きっとそういうものであるような気がしています。
     そんなわけで,ある人と色々と話して,その人について知る,ということを今回もしたんですけど,やっぱりすごく新鮮でした。自分にとっての「ふつう」がその人にとってはそうではなくて,きっとそれはその人も感じていたことなのでしょう。最初に思っていた,感じていた印象とはどんどん乖離していってしまったんですよね。話していくうちにお互いのことがわかっていって,それでもっとお互いに興味をもって,っていう風になっていけば良かったのかなあ,とは思うんですけどね。難しいです。
     やっぱりこういうものも相互作用なのでしょう。一方的なのはあらゆるコミュニケーションにおいてあんまり好ましくないはずです。独りよがりに好奇心を行使し続けてしまっていても,相手からのレスポンスがないと結局は長続きしないですし,自分の好奇心の源泉のようなものが失われていくように思えます。もちろん,僕という人間がコミュニケーション大好き人間であるというのは原因の1つだとも思うのですが。
     ただもちろん,対人間のコミュニケーションは静的なものではなくて,どんどん変わっていく動的なものです。それぞれの環境によって,どんどん変わっていくものでもあるはずなのです。それがいい方向なのか悪い方向なのかはわかりませんけどね。

プログラミングってなんだろう,を情報科から

     正式に情報科に配属になりました.思っていたよりコマは埋まっていなくて,なんだか自分の勉強ができそうな反面,大学生ってこんなものなのかなあと同時に思う毎日でもあるのです.せっかく4月ですし,情報科学生にとってきっと欠かせない「プログラミング」が僕にとってどういう意味をもっていて,これからどういう意味を持っていくであろうか,ちょっと書いてみます.これも4月病の1つであるとは思うのですが.

     この文章はなるべく「プログラミング?なにそれ美味しいの?」な人に向けて書くようにしますが,わかりにくいところがあったらごめんなさい.間違っている場所があったらなるべくご指摘いただきたいです.
     プログラミングってなんのためにやるの?とか,なんでそんなことしなくちゃいけないの?ということを言う人は周りに多いです.でも,最近は色んなところでプログラミングの重要性が指摘されているので,「なんだかよくわからないけど大事そうなもの」だと思ってくれている人は多いようです.せっかくプログラミングをがしがし使っていく道へ進んでいくわけですし,こういうことをパッと話せたら,なんかすごくカッコいいですよね(?).
     「情報科に進むんだよ」と伝えると大体の人が「じゃあがしがしプログラミングとかやるんだね!」って言います.まあ間違っていなくもないですね.実はプログラミング以外にも数学であったりとか,回路の話とか,色々とやらなければいけないことは多いのですが,長くなってしまうので割愛します.
     プログラミングをなんのためにやるのか,僕なりの考えは「コンピュータと人間の間の翻訳」ですね.(色々と異論はあるはずですけど)コンピュータはものすごく便利で,人間の生活を助けてくれる素晴らしい箱なのです.でもやっぱりちょっと融通がきかないところがあって,色んなことをやってもらうためには,人間の言語や論理体系をなんとかコンピュータがわかるように変えていかないといけません.そういうことをやっていく「プログラミング」っていう作業です.だいたいこんなところでしょうかね.
     ほとんどの人は知っていると思いますけど,コンピュータっていうのは単なる電子回路の集まりでしかありません.コンピュータの中では,バイナリといって,0と1でしか処理は行われていません.人間が0と1で組み合わされたものを読み書きできればいいけどそういうわけにもいきませんよね.そこでプログラミング言語っていうのが必要になります.
     プログラミングには色んな言語があります.上で僕が「翻訳」と書いていたり,左の方に「言語」と書いてあることからわかるように,プログラミングっていうのはある意味では言語みたいなものです.もちろんコンピュータには実際に計算をしてもらうわけなので,実際の言語とは大きく異なる部分もたくさんありますが.代表的なものだとC言語*1C++*2Java*3Objective-C*4Ruby*5Python*6PHP*7とか.この中のどれかを使って,がしがしコード*8を書いていくことになります.
     実際の言語においても,ラテン語は学術的だとか,フランス語は愛を語る言語だとか,英語は議論に向いているとか,(諸説ありますが)言語それぞれに対して「性格」であったり「用途」みたいなものはありますよね.上に挙げた言語もそんな感じです.色々と用途に応じて(例えば数値計算をして欲しいとか,なんかアプリを作りたいとか,データ管理をしてほしいとか)言語を変えていきます,言語が違うとそれはそれで書かなきゃいけないことも変わってきますし,コンパイル型とかスクリプト型とかオブジェクト型とかまあ色々あるんですけど,説明が難しいし,たぶん僕自身もあんまりよくわかっていないのでやめておきます.
     ただ,実際の言語だと文法がちょっとくらい違っていても通じるんですが,プログラミング言語だと1箇所でもスペルミスをすると通じません,面倒くさいですね.とはいえ人間がつくったものなので,ものすごく論理的で,通常の言語にある不規則変化みたいなものはあんまりないんですけどね.
 
     プログラミングそのものについてはこんなところです.そんなわけで,実際に僕はプログラミングによってこういうものを作っているんですよーって言えたら良かったんですけど,まだまだそのレベルに達するにはプログラミング力が足りないみたいです.加えてたぶん今はまだまだ基礎教養が重視なので,あんまり実用的なことはやらないのでしょう.
     学校の授業の一環でC言語というのを1年間やっていました.C言語というのはかなり古い言語で,まだまだコンピュータの性能も古いときに創りだされた言語です.色々とやっちゃいけないことが多くて,できることはあんまり多くありません.なにかアプリを作るとかいうよりは数値計算向き*9です.色々と気を遣わないといけない部分が多くて面倒くさい反面,コンピュータの内部がどうなっているかがわかるような気がします.
     最近だと僕達みたいな情報系以外の人でもプログラミングを学びたいとか,学んでいる人は多いみたいです.まあこういう高度情報化社会ですし就職にも有利なのでしょう.やっぱり普段つかうスマートフォンとかPCのアプリ,ソフト,はたまたWebアプリなんかを自分で作れたり,動かせたりできたらすごく楽しいしかっこいいですよね.
     僕達みたいな情報系学生が他の「プログラミングを学ぶ人達」とどう違うかもちょこっと書いておこうと思います.といってもなんとなくこんな感じなのかなあと思ったところを書くだけで,あんまり業界の中身を見てきたわけではないのですが.
     僕達はプログラミングで何かを作るだけの学科ではないので,「コンピュータ内部がどう動いているか」とか「どうやってコンピュータは情報を処理するのか」とかいう部分も学びます.このあたりの話は実は数学ぽかったり,ものすごく抽象的な概念を扱ったりします.学生は新しもの好きだったり,実用的な部分を重視したりするので(僕を含め)つまらないなあと思ってしまうものではあるんですが.こういうこともそのうち役に立つのかなあと思って頑張る毎日です.なんでもできる「魔法の箱」の仕組みをちょこっとずつ解き明かしていく感じですね.
     今は授業でJavaをやっています.C言語よりも色々と融通がきくような気がしてとても楽しいです.まだまだ「プログラミング初心者」のところからは抜けだせませんが,そのうち何か作れるレベルまでいけたらいいなあ.Web関係の知識が少ないので,htmlやJavaScriptPHPなんかにも手を出すつもりです.RubyPythonもやれたらいいなあ.やれたらいいなと思ってしまうだけになりそうな気もしますけど.
     「なんでもできる魔法の箱」を自分で操れるようにしていく感じかな.
 
    なるべく専門的な話はやめようと思っていたのに,ついつい専門的(?)な話が多くなってしまいましたね.コレも理系の悪い癖なので,もう少し一般向けな話ができるようになったり,文章がかけるようになったりしたら嬉しいのですが.やっぱり色んな概念やたとえ話を使ったほうがいいのかなあ.
 
     以下は現在のプログラミング環境について.プログラミングをやったことがない人にとってはさっぱりピーマンだろうと思うので,特に興味がある人以外は全く読む必要がないです.プログラミングを始めるときってなんだかんだ環境を用意するのが面倒なので「こういう環境で書いている人もいるんだなあ」くらいに思ってもらえばいいです.
     マシン: Apple MacBookAir(Mid-2012)((13inch,2GHz Intel Core i7,8GB DDR3メモリ,256GB SSD)
     OS:OS X 10.9 Mavericks
     シェル:zsh
     エディタ:gvim(MacVim)
     IDEを使おうかなと思っていた頃もあって,XcodeEclipseも一応インストールしてあるんですが,Vimでがしがし書くことが多いので,今でもターミナル+gvimで書いています.色々とカスタマイズ方法もわかってきて楽しい限りですね.Emacs?…知らない子ですね.
     

*1:世の中の基板のところを支えてくれています.PythonだってRubyだってCでできていますよ

*2:C言語に色々とくっつけたらできました

*3:有名な言語.色んなところで使われています.

*4:Apple好きな人のための言語.

*5:楽しくプログラミングができることを意識しているそうです.国産.

*6:コードがとっても綺麗!ニシキヘビ!),JavaScript((Webで色々できる言語です.

*7:Webアプリのための言語.お母さんはHTMLです.

*8:プログラムが書かれた文章のこと.エディタと呼ばれるソフトを使ってキーボードでぽちぽち打ち込んでいきます.

*9:そんな気がするってだけなので,批判は受け付けます.

アラームをかけずに寝て起きたら,午前中が消滅していた

     これが今朝おきた惨劇です.今朝,というのが「朝」を指すのならば,一生に一度しか訪れない2014年3月5日の午前中は,ぐうぐう寝ることによって消滅してしまったということになります.遺憾ですね,非常に遺憾です.

     残念ながら消滅してしまった午前中に思いを巡らせたところで,失われた午前中は戻ってきません.そんなことをする暇があるなら部屋の片付けをするとか,借りた本をさくさく読んでいくとか,なるべく有意義な時間の使い方をしたいと思っていました.でもそういうわけにはいきませんね.寝る,という怠けモードでスタートした1日が,そう簡単に有意義モードに移行することはありません.適当にTwitterしてネットサーフィンしたら,いい時間になってしまいました.あああ.
     寝る,という人間の活動の中でおそらく最も生産的でない活動をしていたというのに,お腹が減るのはなぜなんでしょうね.とはいえ,実はこの長い時間の睡眠が,今後の生活における「きらりと光るアイデア」とか「土壇場の素晴らしい発想」を生み出している可能性は否定できません.とまで書いたところでごめんなさい,ただの正当化です.
     そんなこんなで無駄に消費してしまった1日を,少しでも有意義なものにしようと思って今ブログを書いています.だいたいブログを書くときは「うおおおおおお今オレはこれを伝えたいんだああああああああ」という感じで書くのですが,今日はそうではないです.「か,書かねば」という感じで書いています.この文章を書くために幾つかのボツ案が存在して,タイトルだけ並べると「春休みの時間の使い方」とか「貧乏合宿Q&A」とかになります.ね,全然おもしろそうじゃないでしょ?
     「コレが書きたい」ではなくて「何か書きたい」という動機ではじめた文章なので,いつものように(いつももあんまりないですが)全体を統括するという意味でのタイトルではないです.アラームをかけずに寝て起きたら,午前中が消滅していた,というのは誰もによくある(と信じている)ことですし,コレを朝はじめて会った人に伝えたとしても「あっそう」という感じの返答で終わってしまいそうです.
     せっかくなので,今うんうんうなってなんとかひねり出した小さなトピックについてちょっと書いてみることにしましょうか.ちょうどタイトルとして書くには少ないけど,書きたいこともいくつかありますし.
     僕のTwitterをフォローしてくれている人にはわかると思いますが,ときどきパッと思いついたかのように「コレはこうだと思う」ということをtweetします.大体それはあんまり深く考えられたことではないので,各方面から「それは違うよ」とか「私はこう思う」とかいうreplyをいただきます.なんというか自分の甘さに気づけるいい機会なんですね.今回もそんな感じのことを書いてみようと思います.
 
     そういえば専攻が決定しました.うちの大学は実は1→2年次に進振り制度があって,1年次の成績によって学科配属が決定します.成績としては十分すぎるほど十分だと思っていましたが,情報理工学科への配属が決定されました.まだ何をするのかよくわかっていませんが,見たところプログラミングとか情報理論とかやっていくみたいです.
     将来の目標も決まっていそうで決まっていませんが,おそらくSEかプログラマになると思われます.あんまりよく書かれない業界で,実はブラックなんじゃないのかなと悩んでいるのですが,やっぱり情報技術はおもしろいですよね.自分が楽しいと思った情報技術で,世の中がもっと楽しくなったらいいなと思っています.海外就職もちょろりと考えています.別に具体的に何かをしているというわけではないんですけど.
 
     ちょっと思ったことなんですけど,なんとなく遅寝をしていると,面白い夢を見られることが多いような気がします.
     人間の睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の2種類があって,たしかレム睡眠の間に夢を見るんだったかと思います.いつもは6~7時間の睡眠をとっていて,あんまり「この夢おもしろかったなあ」と思うことはないような気がします.たしか人間は見た夢の何割かをすぐ忘れてしまうとかで(データが適当すぎですね),実は面白くてもあんまり覚えていないだけなのかもしれませんけど.
     僕の夢には「いるはずのない人がそこにいる」とか「おかしな世界に生きている」ということが多いです.昔あったことや,これから起こるであろうことの夢を見ることは少ない.コレもなぜなのかなって思うことなんですが,夢の中で起こっていることって,どう考えても通常と違っておかしいのに,納得してしまうんですよね.コレをすぐに納得するのではなくて,「今じぶんは夢を見ているんだ」という意識ができるようになると,それはいわゆる「明晰夢」になります.コレを繰り返すと,思い通りの夢を見られるそうですね.なんか面白そうだけど,ちょっとこわいような気もします.
     ちょっとだけ想像力が豊かな僕としては,夢っていうのは「並行世界の自分に接続している」とかいうのが面白いなと思っています.
     ここでいう「並行世界」っていうのはいわゆる「パラレルワールド」のことです.今の世界と似ているけど,なかなか交じり合うことがなく,どこか違っている世界.夢っていう行為を通して,その「パラレルワールド」にいる自分に接続できる・・・.そんなことがもし起きているんだったら面白いなと思います.
     というのも,僕の夢の中では,色んな人が色んな役割を演じています.そういう世界は自分の頭が創りだしただけ,と考えるのが一般的なんでしょうけど,「そういう世界がある」と考えた方が面白いですよね.「宇宙の外側は無」もしくは「他の宇宙がいくつもある」という説もあるみたいですし,夢,という行為により時空をこえてそんな世界とつながっていたらすごく面白いと思います.
     ここまで書いて,これ以上も書くことはできるんですけど,なんだかものすごく頭のおかしいファンタジー人間臭がしてきてしまったのでやめます.やっぱり色んな意味で人間の想像力というのは尽きるとこがないですね.
 
     上の方で「トピックをあげていくつか書く」という風に書いたと思うんですが,これについても謝罪をいれておかなければなりませんね.上のひとまとまりの「夢の話」をしていたら,なんだかお腹いっぱいになってしまいました.
     長い文章を書くのがあまり苦にならない人間なので,書こうと思えばいくらでも長い文章を書くことはできるのですが,それは読む人にとっては申し訳ないです.こんなタイトルと乖離した記事を書いているくせによく言うよ,という意見も飛んできそうですが.

家庭教師はやった方がいいけど,やめた方がいいよ

     家庭教師のアルバイトを4月頃から始めたんですが,ちょっと前にやめたというか,クビになりました.今までの総評というか,これから家庭教師のアルバイトを始めたい人向けに少し伝えておきたいこともありますので,書くことにします.なるべく文句にならないように書きますが,文句になったらごめんなさい.あらかじめ謝っておきます.可能な限り中立的な立場で,メリットとデメリットの双方を書くことにします.

     担当していた生徒は小5で中学受験を控えていました.
 それほど偏差値が高いわけでもなく,55くらいのところを目指しつつ50切るくらいという子でした.理科と算数を教えていました.愛知県であんまり有名ではない中学校を受験した経験があるので,それを買われてということでしょうか.週1で2時間教えて夕食を出してくれました.待遇は悪くないというよりむしろ最高レベルです.それでは家庭教師というアルバイトのいいところと悪いところを1つずつ見ていくことにしましょう.
 
     まず,成績が上がるかどうかは最も重視されます.もちろんそれは偏差値とか点数のうえで.
     成績が上がっているか,(目標とする位置で)安定していれば何も文句は言われませんが,下がってきた瞬間に,直接的ではないとしても,色々と苦言を呈されることが多いです.彼は日能研に通っていたためテストは多かった.範囲の狭い確認テスト,範囲の広い確認テストで偏差値は行ったり来たりを繰り返していました.
     偏差値なんて受験する直前に目標とするレベルまで達していればそれでよく,あんまり気にする必要はないですよ.ということを伝えたのですがなかなかわかってもらえませんね.どう見ても教育熱心なお母さんという感じでしたし,アルバイトとはいえかなり高額の授業料を収めてくれているわけです.保護者の方にしてみたら,なるべく金額相応もしくはそれ以上の働きをしてほしいといったところでしょう.
     多くの方はご存知かと思いますが,成績に直結する教え方というのは難しいです.ここで少し中学受験のお話をすることにしましょう.
     見てきたところ,中学受験の問題において,単に知識を問う問題は少ないです.より実際の入試に近いと言われる公開模試を見れば明らかです.一言で言うならば「考え方を聞く試験」といったところでしょうか.これはその後の多くの試験にも直結することです.あまり教科書などでは見なれない設定も多く「状況を正しく読み解く」ことと「与えられた情報をもとに考えて,答えを出す」という,言うなれば「頭の良さ」が試されるのです.
     確かに各種の考え方を「公式」として暗記すれば,短い期間のテストは割と簡単に得点できます.ところがそういう一朝一夕で身に付けたものというのはすぐ抜けていってしまいます.どうしても長期的なスパンの中で「考え方」を身に付けなければならないため,なかなか目先のテストの成績は上がらず,色々と歯がゆい思いをする日々は続きました.こちらはしっかりと教えているつもりでも,実際の数字としての成績として結果が出てこないと,なかなか感じてもらえません.
     次に巨大な責任感がつきまとうことでしょうか.
     受験の補助教材として家庭教師の導入を決定された方にとって,家庭教師に求める責任感は大きいものです.それにはその生徒さんの人生がかかっているわけですから,いいかげんな気持ちでやってはいけませんし,やるべきではない.それが割と高額な報酬にも現れていますし,「誰かと替えがきく」職業であるわけでもないです.
     保護者の方も,生徒さんも,ものすごく尊敬した目で見てきます.アルバイトとはいえ呼称は「先生」ですし,1人のプロとして扱われ,プロとして振る舞うことを要求されます.その視線は割と重かったといえば重かったのですが.
     勉強を教えるにしても,(途方も無い罪悪感からそんなことは絶対にしませんでしたが)適当に教えてもバレることはありませんし,保護者の方は勉強内容にあんまり興味を示していないようでした.しかし教えるからには僕もなるべく全力で,自分がかつてやっていたのと同じように教えたかったため,試行錯誤しながら教え方を工夫しました.
     小学生を教えるというのは予想以上に難しかった.10年の年齢の違いというのは相当に大きいものでした.色んなことに結びつくことですが「何かを教える」ときには「その人が知っている別の何かになぞらえて教える」というのが便利です.『◯◯と一緒だよね?』といった教え方です.小学生が相手であってもそれで上手くいくかな,と思っていたのですがそんなことはありませんでした.
     やっぱり知っていることが少なすぎました.教えるための例がものすごく挙げにくい.
     小学生に学習として何かを学んでもらうためには,これでもかってくらい噛み砕いて教えなければなりません.かつて自分が納得してきたやり方は通じないことの方が多いです.あの例この例で教えても納得した顔をしてくれないときは本当に涙が出そうなくらい悲しくなりますね.とはいえ「自分が当たり前に納得していることを,それを全く知らない人に教える,理解してもらう」という生きていくうえでかなり重要な能力を身につけるいい機会にはなったような気がします.
     最後にコミュニケーション能力がかなり重要だということです.
     教えていた生徒さんは「わかる」「わからない」をあまり明確に示してくれる子ではありませんでした.そのため,教えるうえでの顔色の変化をなるべく注意して読み取る必要がありました.口で言っていることと本当のこととの間に齟齬があったことは何度もあります.「わかった」というので『じゃあやってみて』とやってもらうとできない.何度もありました.
     そこでため息をついたり,怒ったりしてしまっては誰にとって何の利益もありません.あの手この手で理解を促したり,ときには話題を降ったりとコミュニケーション能力は非常に重要でした.今回のパターンだと10コ近くも年が違うわけですから,ふだん大学生が使うような言葉では齟齬が生じてしまうことも多かったです.
     コミュニケーションが必要な場面は生徒さん向けだけではありませんでした.
     指導が終わるごとに保護者の方と話さねばなりませんし,僕の場合は夕食もご馳走になっていたため,かなりの時間を保護者の方とすごしました.基本的な興味は生徒さんの勉強のことであり,あまり現実をずばずば言うわけにもいきませんから,少し遠回しに言ったり,でも要点は伝えたりとなかなか難しかったです.もちろん世間話として今の自分の学習内容,大学生活についても話す必要があります.沈黙を嫌う質であるため色々と喋ってしまいましたが果たしてどう思われていたんでしょうか.
 
     こんな感じで10ヶ月くらい教えていましたが,僕の人生初めてのアルバイトは終了しました.
     おそらく主な原因は彼の成績があまり上がらなくなったということにありましょう.その他にも,僕がサークル活動や学習活動[要出典]に精を出しすぎたというのも理由の1つでしょうね.「来年は受験なので週2コマ入れないか」とか「直前期の年末・年始は帰省をとりやめて働いてくれないか」などの要望には申し訳ないのですが答えることはできません.
     ネガティブな面ばかり書いてきましたが,素晴らしい待遇をしてくれ,お金を得られ,「ものごとを教える」というチカラを身に付けさせてくれたこの経験はとてもいいものだった,と思うことにしました.
     やめることが決まった瞬間は目の前が真っ暗になったかのようでしたが.それなりの金額も得られたので,最近の僕の持論である「経験にお金を使う」を元に旅行にでもいってパーっと使うことにしようかなとちょろりと計画しています.今回の経験で,これから先いやでも知ることになるであろう「お金の価値」についてなんとなく知ることができたような気もしますし.お金の話はまたちょっとしたい話があるので,機会があればまた何か書こうかなと計画しています.
     今まで家庭教師をやってきた人も,今家庭教師をやっている人も,これから家庭教師をやろうと思っている人も.仕事を始める理由,続ける理由,やめる理由は様々あると思います.一般的には「高時給で楽」と思われている家庭教師ですが,意外とそうでもない部分もあるんだよということを知ってもらえたらいいなと思います.残念ながらその他のアルバイトを経験したことがないため,なんともいえないのかもしれませんが.
     今後のアルバイトはまだ選定中です.今までは教育系のものをやっていたので,そろそろ飲食系とかやって人生経験をつもうかな,とも思います.でもなんだかんだで家庭教師や塾講師に落ち着いてしまうかもしれません.ひょっとしたら今の専攻や将来すすみたい道であるWebデザイナーとかプログラマ系のアルバイトを選ぶかもしれません.話を聞く限り仕事は大変そうですが.
     もっとネットに公開できないようなちょっぴりダークな話や(これは本当に書けない),詳しい話を聞きたいという人はTwitterか何かで個人的にコンタクトをとってくださいね.たぶんいないと思いますけど.

     以下の文章はタイトルと全く関係がないので,読む必要はないです.
     そういえば最近,いますぐ書け、の文章法という本を読みました.ライターを職としてきた筆者がアマチュア向けに「文章の書き方」のようなものを提示してくれる本です.この本を読んで,自分の文章の書き方というのががらりと変わってしまったように思います.というか変わっていて欲しい.
     公開する以上は「読んでもらう」ためのものです.やっぱり「自己満足」じゃいけないのです.常に「読む人がどう思うか」を考えて書く必要があるのです.
     そんなことを意識しながらこの文章を書きました.ここまで読んでくれた方に感謝を示しつつ,それが少しくらいは実現されていたらいいなあと願うばかりです.それを意識し始めると,どうやっても今まで書いた記事がゴミの山にしか見えてこなくて困っています.今までは「読みにくい文章ほど高尚である」とかいうわけのわからない理論のようなものが自分の中にそびえ立っていたようです.たしかにそれは(厨二的な視点からすれば)いいものであるのかもしれません.でも「読みにくい文章」はやっぱり読まれることはなく,これもやはり自己満足になってしまうのです.
     「お前のことを知りたいのはお前の恋人くらいだ」とかいう言い回しがかなりぐさっときました.こういう感じの文章だとどうしても「自分語り」になりがちですがそういうのではいけないということですね.「僕の話」や「僕の経験」を聞きたい,読みたい人は多いけれど「僕」を聞きたい人はたぶんあんまりいないと思うのです.
     もっとも,ブログというのは自己承認のために書くものであり,サービスとしてではなくて,別に自分のことだけ考えて書けばいいんじゃないのという意見もありそうです.このへんも話したり書いたりしたらものすごく楽しくなるはずですが,文字数の都合上やめにします.前述の「読む人がどう思うか」理論を用いると,多分それは全く楽しくないです.僕だったら絶対に読みません.
     プロの物書きを目指す人は少ないですし,あんまり目指すつもりもありません.でも文章を書くという機会から逃れることはこれから難しいはずです.せっかく時間をかけて書くからには,なるべくいいものを書きたいですよね.その文章によって誰かの考え方や人生を変えられたら1番いいですが,楽しんでもらえば書き手としてはものすごく嬉しいのです.
     このブログを作ってから,たぶん2年くらい経ちました.書きたいときに書きたいだけばばばっと書いたゴミの山という感じですが,これからも少しずつ書き方を変えていって,面白いものができたら嬉しいなあ.
 
     そういえばその本に書いてあったこととして「頑張って自分を第三者の視点において,書いた文章を読み返す」ということを今回(たぶん)はじめてやってみることにしました.今まではとにかく書き終えたらお腹いっぱいですぐ公開していましたが,今回はそれをやめたということです.
     読み返すと些細な表現上のミスはさることながら,「これはないな」という書き方や言い回しもたくさんありました.
     最も多かったのが「無駄にまわりくどい表現」でした.読み返してから削られる表現の多いこと多いこと.今までそのまま公開していた自分を殴りにいきたくもなるくらいですが,これからの文章がなんとなくでも改善されることを期待してこのへんで終わりにしましょうか.ブログというのは文字数の制限がない以上,どうしても書きすぎてしまうものですし.