たいむかぷせる2

何年か後に見なおして頭を抱えてくなるものたちのあつまり

さらっとしたことを,さらっと書きたくて。

 ぼくがブログという形で文章を書き始めてから,今年で7年になります。今あるブログは,記憶が正しければ3つめのブログです。それまでのブログには,思い出すとものすごく恥ずかしいことを書いてきました。「科学を使ってわかる日常の疑問」とか「社会情勢に対して思うこと」とか,はては「日常に起こったこと」とか,あらためて考えてみても「だれが見て楽しいと思うんだろう」と思えるものばかりです。
 今も昔も《書く》とか《ブログ》とかいうことについてはよく考えてしまいます。「書く」ということはぼくの生活の中で少しずつ変わってくるものでした。ここらへんで「書く」ということを考えなおしてもいい頃だろうと思って,この文章を書きます。

 書こう書こうと思って書けなかったこと,っていうのがぼくの生活には多く存在します。なにか日常にものすごい印象的なことがあって,これは文章で残しておかねばならない,と思うことが「書こう書こうと思ったこと」だといえます。でも,なぜだか書けない。そういうよくわからないスパイラルにがんじがらめになってしまいます。
 書こう書こうと思った《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損ないたくない,そう思ってあれこれ書くのです。基本的に《日常でものすごい印象的なこと》っていうのはぼくにとって《わからないことがわかるようになった》であることが多いです。じぶんがわからなかったことがわかるようになって,世界がぱあっと晴れる感じ,といえるでしょうか。

 でも《わからないこと》が《わかること》になるというプロセスは,他人に伝えるのがすごく難しいことです。それもそうですよね,だって今まで「わからなかった」んですから。
 だから,文章を書くときにものすごい数の「準備」をしてしまうのです。メモを取ったり,何度も書きなおしたり,一晩置いてみたり,えとせとら。先に書いたように,これはすべて《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損なわずに伝えるためです。でもそれが果たして,なるべく損なわずに伝えるために有効な手段となっているか?ということも,最近はとても思うのです。
  色々と「どう伝えようか」考えているうちに,そのときの「印象」は薄れていきます。それに伴って,伝えるための趣向を凝らす,という努力がめんどくさくなる。そして最後には,本当にそれが「印象的」であったのか疑わしくなる。そんなプロセスが,どうしてもやってきてしまうのです。
  そんなこんなで,ぼくはずっとなにも書けない,という状態が続いてきてしまいました。

 でも世の中には,ある程度の「文章をさらっと書く」人が存在するのです。ぼくはそれが昔から,ものすごくうらやましかった。じぶんはこんなに悩んで苦しんでいる文章を,なぜあんなにも「さらっと」書けてしまうのだろう,と。
 年末と年始にかけて,何人かの《文章を書く人》に会ってきました。会うたびに「こうなりたいなあ」と思う像はどんどん増えていきました。
 もちろんぼくが表面的な部分しか見ていないというのはじゅうぶんにあり得ます。「そう見える」だけで,その人も実はものすごく「悩んで」そして「苦しんで」文章を書いていたのかもしれません。
 でもぼくはやっぱり「さらっと」書きたいのでした。

  そうやって「どう文章と向き合うか」ということを考えていたときに出会ったのが,ちくわさんのAskでした。

だいたい公開した翌朝に後悔するものの、長い目で見て書かなきゃ良かったと思うことってあんまりないので、とりあえず続けているといったところです。
ーーーどうしてブログを続けているのだと思いますか? | ask.fm/chikuwa_


 これを見た瞬間にぼくは「これだ!」と思ったのでした。こんなにも苦しんで悩んで何かを書くけれど,不思議と「書かなきゃ良かった」と思うことはあんまりない。これに尽きます。
 わかりやすかったり,誰かに読まれたり,知識を得られたり,といった文章をめざすべきなのではないか,と思っていた時期もありました。でも「書かなきゃよかった」と思わない《じぶん》のために,文章を書くのもいいのかな,とも思えるようになりました。

 「なぜ書くのか」とか「どうやって書くのか」というのに,なんらかの答えを出せるようになるには,きっと「書き続ける」しかないのでしょう。なぜだか不思議と「書きたくなく」はならないですからね。
 幸いにも一定数の人たちには読んでもらえているようで,うれしい限りです。どうやらぼくが生きているかぎり,このようなブログは続きそうですから,ぜひお付き合いくださいな。

  ひさしぶりに「さらっとしたこと」を「さらっと」書こうと思いましたが,どうやら失敗してしまいました。相変わらず分量はものすごく増えていきます。うーん,試験前にこんなことをしている場合ではないんだけどなあ。

あなたにとって「大晦日」は特別ですか。

     年末のこの時期になると,ぼくはいつもわくわくしていました。特に年末の「大晦日」という日はぼくにとっては特別な日だったのです。
     それは家族にとってもそうでした。わが家では,ぼくが小さい頃は「カップラーメンを食べること」や「日付をまたいでも起きていること」は禁止されていました。でも大晦日ならば,それは許されていたのです。
     小さい頃のぼくは,それはもうわくわくしていました。大晦日だからこそ今までやったことのない「徹夜」をしてやろうかとか,どんな味がするかずっと気になっていた「カップラーメン」を食べてやろうかとか,もうわくわくの宝庫だったのです。それはいつも暮らしていて見慣れているはずの「わが家」の景色を,何度も変えてくれるものであったのでした。
     そうやってぼくはずっと「大晦日」を楽しみにしていたのです。
 
     でも今年はあまりそうではありませんでした。タイムラインで見た人の言葉を借りるならば「もっとも『大晦日感』がない大晦日である」といったところでしょうか。というのも今年は18時ころまで名古屋で高校のときの友人と遊んでいたからです。思えば今までの大晦日はずっと家にいて,外出したことはあまりありませんでした。
     大晦日の名古屋は,ちっとも特別ではありませんでした。いつも通りたくさんの人がいるし,お店もいつも通りでした。たしかにざわついてはいるけれど,なんだか「特別」感がない。そういう風に感じてしまったのです。
     家を出たのが11時前でしたから,(起床している)12月31日の半分くらいを「特別でない」大晦日として過ごしてしまったことになります。
 
     でもその「特別でない」大晦日は,自宅に帰ってきたとたん,終了したのです。
     ぼくの家はやっぱり「特別」な「大晦日」が行われていました。おそばを食べて,紅白歌合戦を見ていました。これは毎年ぼくの家で行われることです。
     でももう1つ「特別」な「大晦日」を演出してくれるものがありました。そう,Twitterです。
     ぼくがTwitterを始めてから,2014/12/25で5周年アニバーサリーとなりました。これで6年目になります。ぼくは毎年の「Twitterでの大晦日」も大好きなのでした。みんなが実況して,いつもより流速*1が速くて,わいわいがやがやしています。そして年が変わるまさにそのときにみんなで「あけおめ!」とかtweetします。
 
     そうやって「みんなで」「特別な」「大晦日」を演出していくというのがぼくは大好きです。テクノロジーってすごいなとか,やっぱり人と人とをつなげてくれるんだな,とかなんだか楽しくなります。味気なく単調な日常の連続に,ときどき「特別」が訪れないと,人間はきっとうまくやっていけないようにできているのです。ぼくはやっぱりわいわいがやがやしているTwitterが大好きです。
 
     今年もTwitterがたくさんの経験や出会いをくれました。もちろんこのブログもそうです。今回は久しぶりにメモを書かずに記事を書いたので,色々とシッチャカメッチャカになっていますがご容赦ください。そういえばまた「しんがり」にも記事が追加されたので,よければお読みくださいね。
 
     あなたにとって「大晦日」は特別でしたか。
     よいお年を。
 

*1:時間あたりのtweet数のこと

ぼくと「しんがり」のこと

     だいたい半年くらい前から「みんなでしんがり思索隊」という共同ブログで文章を書かせてもらっています。ちょこちょことこのブログにもリンク付きで紹介していたので,わかる人はわかるかもしれませんね。とあるtweetによって,しんがり思索隊(以下しんがり思索隊と略します)について書くことになったので,ここにこうして書くことにします。
     「しんがり」ではどういうことをしているのか,どういうことを目指して作られたものなのか,ということを知りたい人はこのご案内の記事を読んでいただければ大体わかると思います。まあでも少し書いておきましょう。
     ここではたくさんの人が「きあずま」と呼ばれるお題に合わせて文章を書いています。「きあずま」を投げかけることもあります。そうしてみんなで文章をより集めてひとつの「ブログ」をつくっていくのです。
 
     「しんがり」が開設されたのは,今年の6月のことです。
     どういうやりとりがあったのか,詳しくは忘れてしまったのですが,ちくわさんという運営者の1人に声をかけてもらったのが始まりだったと記憶しています。彼とはぼくのTwitter黎明期からずっと仲良くしてもらっていて,お互いにブログで文章を綴っていることは知っていました。
     ひとりよがりに文章を書くのもいいけれど,みんなで文章を書いていくのもおもしろいかもしれないなあ… といった,割と感覚的ななにかに引き寄せられて,ぼくは「しんがり」に参加しました。
 

 
     はじめて「しんがり」を見たときから,そして今少しずつ拡大していった「しんがり」を見てぼくが抱く印象はあまり変わっていません。それは
 
じぶんと似た人がたくさんいる
 
というものでした。お前なんかと一緒にするな!というしんがりライターのみなさんがいたらごめんなさい。
     ぼくはじぶんが思ったこと,感じたこと,考えたことを文章に綴ってきました。そしてそれを「ブログ」という形で公開していきます。でも,そういうことをやっている人は周りにあまりいませんでした。
     ひとりよがりにじぶんが悩んで考えて感じたことを文章で書いて公開する。果たしてそれは正しいことなのかな?と思っていた矢先のことだったのです。
 
     それで出会った「しんがり」はぼくにとって救いのようなものでした。「こういう生き方をしていてもいいんだよ」と実感させてくれたような気がします。生きるのに悩んで,苦しんで,でもそれを文章にして,それで生きていく。そういう生き方はあってもいいんだよ,と言ってもらえたような気がします。
 

 
     「しんがり」について思っていることをもう1つ。ぼくは「しんがり」は
 
現状のインターネット文化に対するレジスタンス
 
の1つであるかのように思っています。
     最近のインターネットの風潮は「誰にでも理解できる」ものであり「短時間でわかってもらえる」ものが多いように,ぼくには見えます。さいきん話題のいわゆる「YouTuber」と呼ばれる人たちの動画や,有名なブロガーさんたちのブログはそんな感じです。
     一時期このブログの方向性を見失っていたときに読んだ「ブログ論」のようなものにも「まず見る人のことを考えろ」とか「おもしろいと思ったもので毎日更新しろ」とか書いてありました。
     でもぼくはそういう形のインターネットは「見る人にへつらいすぎている」と思うのです。インパクトやおもしろさを狙うあまり,悪く言ってしまえば「低俗なもの」が増えているように思えるのです。それは僕がブログやインターネットでやりたいこととは,少し違ってしまっている。
     Twitterという最大140字しか入力できないツールで日常的にコミュニケーションをすることに慣れてしまった人たちに「長い文章」はなかなか読んでもらえません。結果的に改行が多かったり,全体としての量が少なめな文章になります。
 
     でも「しんがり」は違います。たくさんの人がひとまとまりの長い文章を使って,なにかを表現しています。ぼくらのブログは,通勤や通学の間といった「スキマ時間」にひょいひょいっと「見て」もらうものではなく,しっかりと画面と向き合って,しっかりと「読んで」もらうものであると思っているのです。この広いインターネットの世界に,こういう場所が1つくらいはあっていいはずです。
 

 
     同時に「しんがり」は僕にとって,
 
人と人を「つなげて」くれるもの
 
でもあります。
     このブログがそうではないという意味では決してないのですが,しんがりでは自分と似たような人に「読んでもらえる」可能性がすごく高いのです。しかも,同じような内容に関して「書いてもらう」こともできるのです。
     誰が読んでいるかわからないこういう個人ブログでは,どうしても書き手であるぼくと,読み手であるみなさんの距離が遠く思えてしまいます。コメントをくれる人もあまりいませんしね。コメントくださいと言っているわけでもないんですけど。
 
     インターネットは双方向性をもったコミュニケーション手段です。できれば一方通行ではなくて,双方向のコミュニケーションがしたいものです。そういう意味でも「しんがり」はぼくにとってものすごく居心地のいい場所の1つであるのです。そうやって確実に人と人を「つなげて」くれるのです。
 
     また「しんがり」は,ある「きあずま」について,ある人が心を尽くして綴ったものです。心を尽くして綴ったものはもちろん,その人の心の深い部分を少なからずあらわしています。
     その人とは会ったことも話したことも,顔を見たこともないのに,その人の心の深い部分を知っている。そういう関係性はなんだか不思議で,なんともいえずぞくぞくします。かなり前にインターネットがせまくなってしまったと書きましたが,ぜんぜんそんなことはないのかもしれませんね。
     インターネットを使った「しんがり」は通常のコミュニケーションと違った方法で,まだまだ僕たちを「つなげて」くれているみたいです。
 
     もちろん,
 
ものごとを「違う視点から」とらえる
 
こともできますよね。
     色んな人の色んな文章で,色んな考え方を知るのはとても楽しいことです。「こういう生き方をしてきた人がいるんだなあ」とか「こういう考え方もあるんだなあ」と知ることは,なぜだかハッキリとはわからなくても,すごく楽しいことなのです。
 

 
     そんなこんなで「しんがり」について書いていったら予想外に分量が増えてしまいました。実際にはお題1つと記事2つという,なんとも情けない参加率なのであまりえらそうなことは言えないのですが。僕が「しんがり」で書いた記事はここから見ることができます。
     最近またしんがりライターの方が増えてきて,どんどんにぎやかになってきました。この素晴らしい場所を続けていくために,僕もたくさん考えて,たくさん書いてみようと思っています。
     「しんがり」に書かれているような内容で実際の書籍をつくり,文フリで販売するという「あみめでぃあ」企画もスタートし,無事に初刊を発行できたようですし。次号から僕も執筆する(予定な)ので良ければお手にとってみてください。
     「自分には書けない」と思っていても,書き始めると案外すいすい書けるものです。やっぱり僕にとって「書く」ことは「考える」ことであり,生きるために必要なことなのです。
     もし「自分もしんがりで書いてみたいぞ」と言う人がいたら僕かちくわさんか誰かにひとこと声をかけてみてください。
 
     書いてみよう,それは案外,いいことだ。

実験のアルバイトをした話

     木曜日は疲れたじぶんを癒やすために全休にしています。でも割と毎週水曜日にぐだぐだと夜更かしをして昼ごろに起き,特に何も生産性のないまま貴重な休みは失われていきます。
     休みなんだからぐだぐだと消費して休んじゃえばいいじゃないか,とも思います。でもやっぱり何をするにもお金はかかります。こうして堕落しているとあとで何らかの痛い目を見そうなので,ちょっとばかり働いて活動資金の足しにしようと思い,単発のアルバイトをすることにしました。
     うちの大学は少しおもしろいシステムがあります。大学の学生用のWebページに「学内のアルバイト」という項目があって,学生向けにアルバイトを紹介してくれるのです。その中に「1日で終了する」といったものがあり,今回のアルバイトはそこに掲載されていたものでした。
     そのうちのほとんどは「研究や調査に使用するための実験の被験者」というものです。ほぼすべてのものが学部が正式に行う実験なので怪しいといったこともありません。今回行ったものは経済学に関するもので,実際にコンピュータで完全に匿名が保たれた参加者間の取引(ゲーム形式ですね)をするというものでした。そのゲームの結果に応じて報酬が変動します。
     この実験はこれからも継続して行われるそうなので,詳細がわかってしまうようなこと(いわゆるネタバレ)は避けなければなりません。でもかなりおもしろかったので,なんとか隠しつつおもしろさが伝わるように書ければいいなと思います。

     (わかる人がどれくらいいるか不明ですが)一言で言ってしまうと「ライアーゲームをしてお金を稼ぐ」というものです。経済学の実験とはいっても,やることはギャンブルに似ています。元手はなく,必ずプラス収支で帰ることができますが。
     ギャンブルかつ,参加者間の取引がありますから,しっかり考えないと負けてしまいます。なるべく負けたくありませんから,なんとか相手をあざむいたり,裏をかいたり,先を読んだりして自分の利益の最大化につとめていきますよね。
     この手のゲームは「お互いが信用しあっていれば最も(あるいはある程度は)利益を得ることができる」というものがほとんどです。
     でも頭ではわかっていても実際にやるのは難しいな,ということを実感する1日でした。「みんなが同じくらいしあわせ」がきっと理想的な姿であるはずなのにもかかわらず,です。ゼロサムゲーム*1ではないため,誰かが得をして誰かが損をすることもあり得ないのに。
     もちろんそうなる努力はしました。でも「これでいい感じのところに落ち着いたかな?」と思っても誰かが結局「自分だけが儲ける」という張り方をしてしまいます。結局のところこれが人間というものであり,色々な取引の難しさなのかなあ,なんてことを思いました。
     結果的に僕は時給に換算するとそこそこの金額を得ることができましたが,果たしてコレでいいのかなあとも思います。もちろんお金をたくさんもらえれば嬉しいのです。でも匿名同士でやりとりして,騙したり騙されたりして,お金がもらえてラッキーというのはやはり少し気持ちが悪い感じもしてしまいました。

     実は今日はもう1つ単発のアルバイトをしました。それについても少しばかり書いておくことにいたしましょう。これは別にそんなにおもしろいことがあるわけではないのですが。

     もう1つのアルバイトは「英語の教材をつくる参考にする」ためのアルバイトでした。僕は英語が好きですし,英語で話したり読んだりするだけでお金がもらえるならいいかな,と思って軽い気持ちで応募しました。
     実際に指定された集合場所に行くと,なにやらスタジオのようなところに通されました。マイクとPCとタブレットだけが置いてあってびっくりです。
     どうやら「タブレットに指示されたことを喋ったり書いたりする」というもののようです。はじめにSpeaking,そのあとWritingという感じで進みます。
     1つめのセクションでは,宮沢賢治の「北風と太陽」や「オオカミ少年」といった文章の日本語のもの,英訳されたものを交互に読まされました。係員の人がスタジオに出たり入ったりして合図を与えてくれ,その通りに読んでいきます。
     1つめのセクションはただ読むだけですからそれほど苦労はなかったのですが,問題はそれ以降でした。タブレットに表示される絵を説明したり,自分の意見を述べたりするものだったのです。
     「ただ書かれているものを読む」のと「考えながら読む」ことは大きく違います。言葉では言いにくいこと,うまい表現が出てこないこと,自分のちょっとしたミスに気づくこと,などなど色々ありました。というか恥ずかしかった。これに尽きますね。
     最後は制限時間15分でお題に合わせて英語で書くことを要求されました。意見を述べる,というものでこれがなかなかつらかったです。こういうものを書いていると某大学の自由英作文を思い出しましたがまさにそんな感じです。書いているうちに整合性が取れなくなって大変でした。
     でもまあ,いい経験にはなったかなと思います。とても楽しかった。


     今回はいつもと違い,日記のように書いてみました。いつもはまずなんらかの「言いたいこと」を用意して,それに合わせるために色々な話をつくっていきます。
     でも今回はあったことをただだらだらと綴るだけでした。書き手にとってはものすごく書きやすくて楽なのですが,読む人にとってはおもしろいものができているかどうかかなり不安でもあります。
     「あなたに興味がある人は実はとても少ない」ということはどこかでだれかが述べていたことです。それはきっとそうで,僕の日常に興味がある人なんてほとんどいないことでしょう。
     「自分のためにブログを書く」のか「読んでくれる人のためにブログを書く」のかどうなのか。ということにきっと僕は永遠に悩み続けることになるでしょう。もちろんコレにはまだ答えは出ていませんが,今回は割と「自分のため」に文章を書いたつもりです。後から読んだときに「ああ,こんなこともあったなあ」と感じるためのなにか,という感じ。
     最近はいろいろとつらいことも多いですが,文章を書くことで少しだけすっきりしたようにも思えます。

     今回の実験で僕が生み出したデータが,さまざまな形で世の中の役に立っていたらいいなあ,なんて思いました。

*1:ゲームの理論で,参加者それぞれの選択する行動が何であれ,各参加者の得失点の総和がゼロになるゲーム。零和ゲーム。

頭がぐるぐるするから

  気づけば夏休みが終わってから3週間も経っていました。毎日ブログを更新するぞ,と意気込んでいたのにその意欲はどこかへ消えてしまって,結局今までのように適当なタイミングでブログを更新するだけ,となってしまいました。最終更新は8月9日なので,ざっと2ヶ月以上も更新していないことになります。
  頭の中にもやもやしているものがあるとき,「書く」という作業はそれをぱあっと晴らしてくれる手段の1つであると思います。そんなわけで今,僕の頭のなかに溜まっているもやもやを少し晴らしてみようかな,と思います。
  卑怯ながらも各トピックの最も重要な部分は隠してあります。ちょっとこうやってインターネット上に載っけるべきものではないからです。わかる界隈のわかる人がいればわかると思いますが,まあつまりそういうことなのです。


  こころが悲しくなってしまう季節,と書いたように,最近はちょっとこころが悲しいです。色んな人に触れる中で,自分の価値観も少しずつ変わっていったようにも思えます。生き方はそれほどがらっとは変わらないけれど,少しずつ周りに合わせて変えていく,そんな感じがいちばんいいのかな,なんてことも思います。
  やっぱり僕はもっと他人のために生きるべきでした。別に今まで自分のためにばかり生きていたわけではないのですが,やっぱりそう思ってしまいます。
  そうは言っても,自分では他人のために生きているつもりが相手にとってはただの迷惑でしかなく,単なる自己満足にすぎなかった,ということもあり得ます。そういう危険性は常に考えておかないといけないな,と思うのです。
  他人のためにみんなが生きる世界が幸せだとも思えません。でも,相手がどう思っているか,を常に考えて生きることがそれほど悪いこととも思わないのです。
  ある考え方を手に入れたときに,世界の見え方がすっかり変わってしまうということはきっと何回もあると思います。それが自分の近くの人のものだとその驚きは相当なもので,自分の見えていた世界がすべての人にとって同じではない,ということに気づくことがあります。
  自分の視野や考え方はものすごく狭いものだったんだ,と気づいたときにはもう遅くて,色んなことが手遅れであることが多いです。でもそれに気づいて,次の世界をより広い視野で受け入れていかなければいけないんですね。

  他人のことを考えるのは大事だ,と書きました。でもこの文章はぜんぜん他人のことを考えて書いたものではありません。頭の中のもやもやをそのまま吐き出したといった感じです。
  言ってみれば「心に移りゆくよしなし事を*、 そこはかとなく書きつく」ったということになりましょう。
  こういうことこそTwittertweetすればいいのに,という人もいるだろうと思うのですが,それぞれの文章にはやっぱり微妙に関連がありますし,できればこれらの文章はまとまった状態で読んで欲しいと思います。
  これが僕なりに最低限「他人について考えた」結果である,という風に結論づけることはたぶん少しばかり強引でしょう。

  「ブログは公開するものである以上,読み手のことをいちばんに考えるべきである」というのはTwitterでも,このブログでも僕が何回も述べてきたことです。それは半分くらい守れてきましたが,きっと半分くらい守れてないでしょうね。
  でもやっぱりこのブログのタイトルである「たいむかぷせる」という性質上こうして,わけもわからず悩んでいた軌跡を残しておくことはきっと重要であるのでしょう。
  ひょっとしたらどこかにいるかもしれない誰かに役立つかもしれないことを願いながら,そんなことないだろうな,とも思いながら。

1人だけど1人じゃない時間

     何度かTwitterにも書いたことだと思うんですけど,僕はカフェとか図書館で過ごすのが好きです。たとえばスターバックスに行くと,AppleのMacBookAirを広げてガシガシと作業している人を割と見かけますよね。スターバックスMacBookの発表会会場なのかどうなのか,という話はここでは置いておいて,1人の時間の過ごし方の話をします。
     僕は整理整頓が苦手です。家族と暮らしていたときは,一定期間おきに母親が「部屋を片付けよ」といったようなことを言ってくれました。その頃は部屋はまだまだなんとかなるレベルに保たれていたのですが,やっぱり一人暮らしを始めるとダメみたいですね,どんどん散らかっていっています。
     定期的に誰かを家に呼ぶとか,自室の画像を撮ってアップロードするとか,なんらかのきっかけを作って部屋をキレイに保てばいいんでしょうけど,なかなかそういうわけにもいきませんよね。テスト期間には,まず必要なプリントや教科書を部屋の中から発掘することから始まってしまいますし,テスト期間に限りません,日常でも色んなものを探しています。
     ああ,カフェとか図書館の話をするんでした。なんで自分はカフェとか図書館を利用するんだろう?と考えた結果,得られたのは「1人だけど1人じゃない時間」が欲しい,ってことなんじゃないかな,という結論でした。
     もちろん僕も大学生ですし,大学生が無駄に大人の真似をしたがったり,自意識過剰であったりするのでしょう。今回の話ももしかしたらそういうものからきていて,「カフェで時間をすごす自分カッコいい」みたいな意味付けもできるのかもしれませんね。まあでもそんな話をしたら元も子もないので今回は上記のように強引に仮定します。もちろん少しはあるのかな,っていう気もしますけど。

     「1人だけど1人じゃない時間」っていう表現は一見するとなんだかおかしいですね。1人なのか1人じゃないのか結局のところはどっちなの?って聞かれそうです。でもこう書いたのには実はちゃんと意味があるんですよ。
     カフェとか図書館っていうのはパブリックな空間です。色んな人がやってきて過ごす場所ではあるけど,公共の場所なんですね。来ている人の何割かは1人の時間をすごしています。でも完全に自由気まま,傍若無人に振る舞えるか,というと公共の場所なので,そうはいかない,っていうことですね。
     僕はなかなか集中力が続かず,すぐに遊んでしまいます。でも色々と考えた結果,カフェとか図書館がその乏しい集中力でなにかをしなければいけないとき,少しは助けとなってくれるということがわかりました。
     他人の目,っていうのがどうやら僕を助けてくれるみたいです。家のように私的な空間では,マンガを読むとか,Twitterをするとか,ゲームするとか,そのやらなければいけないタスクを放り投げて時間をすごすための手段はいくらでもあります。でも,そういう空間で「誰かに見られて」いたら遊んではいけないなあ,っていう気になります。自分の周りで遊んでいる人なんて,ほとんどいませんからね。
     自分の机とその周りは,自分専用の空間です。持ってきたものをばばっと広げて,1人の時間を楽しむことができます。でも,それは完全に1人ではなくて,常に誰かの視線にさらされている。そういう意味の「1人だけど1人じゃない時間」っていうお話でした。

     もちろん考えてみると,他にもいくつか理由があるんです。
     まず1つ目は,お金を払った,っていうのが動機づけになる,ということです。「わざわざお金を払ったのだから」とか自分に言い聞かせて,なんとかだらだら過ごさず,タスクに集中します。まあ逆に,そこまでしないとやる気にならない自分ってどうなの,とも思ってしまうのですが。
     2つ目に「完全にそれに集中せざるをえない状況」がある,ということもいえますね。自宅や自室と違って,タスクとそれに必要なものだけを目や手の届く範囲に置いて,強制的に集中する環境を作り出せます。
     3つ目を頑張ってひねり出すとするとやっぱり「適度なうるささ」でしょうか。なにかアイデアをひねり出すという創造的な活動のためには,多少さわがしくてうるさい環境がよい,みたいな論文をどっかで読んだような気がします[要出典]。

     1人だけど1人じゃない時間,っていう題名で書き始めましたけど,書いていくうちになんだか「自分がカフェを利用する言い訳」みたいな文になってしまいましたね。
     図書館の魅力にも触れようかな,とも思いました。でも図書館はやっぱり「本」や「静かな空間」などといった,特有の性質をたくさん持ちます。そのためここで総合的に書くのはやめました。
     図書館については別に記事を設けて書きたいですね。夏はまだまだ長いですし,この夏は「読書の夏」にするのもいいかなあ,とも思うので。「本」とか「図書館」について書きたいことは,まだまだたくさんあるんですよ。

     余談ですけど,この文章も実はカフェで書かれています。特にそうしようというつもりはないのですが,ドヤ顔でMacを広げて…ということをしてしまいました。
     今ものすごく眠いです。でも無理やりカフェに入って,無駄にお金を払うことで記事が一本書けて,有意義(?)な時間を過ごすことができました。それが費用に見合うのか,数百円としてもたくさん行くと結構な負担になるのでは?という部分を考えだすと頭が痛いのでやめにします。

     余談その2にもなるんですけど,やっぱり毎日ブログを更新し続けるのは難しいですね。どうしても書くことがそれほどたくさん生まれてくるわけじゃないですし,コレについて書こう!と思ったことが数日たって見なおしてみると,ただのゴミなトピックにしか見えない,というのはよくあることです。
     少なくとも数日おきくらいには更新できたらいいなあ,とも思うのですが,夏休み最初の方でここまで甘えていていいものか。

     そろそろ終わりたいのですが最後の余談をします。@_chikuwa_さんからのお誘いで,集団で書く?といった趣旨のブログに参加させていただきました。
     ものは試し,ということで記事を1本書いた
あとからきっとわかるよ / 著者:開発室Graph - ch1|開発室Graph|みんなでしんがり思索隊
ので良ければご一読ください。個人的には結構うまく書けたかな,と思いますし,他の著者さんたちの記事も面白いですよ。これからちょびちょびと書いていくつもりです。なにかしらの「お題」が示されるとやっぱり書きやすいですね。
     このブログにも「こういうことを書くと面白いよ」みたいなことを定期的に教えてくれる人または機械が現れないかなあ。

わかりやすいが1番えらい

     わかりにくいものが多いなあ,なんてことを最近は思います。誰かを騙すとかなら(複雑なスマートフォンの料金設定とか)難しくするのもいいんでしょうけど,あんまり難しくしてもなあ,なんてことを思います。
     少し前から,なにか文章を書いたり,人前で話したりするときは,なるべくわかりやすくしよう,というのを意識しています。どういう風にわかりやすくするかは今も明確に決まっているわけではありません。たとえば文章だったら,ひらがなや改行を増やしたり,難しい言い回しを避けたりしています。
     コレを誰が読んでくれるのか?考えるのは大事なんだ,ということを色んなところで話したり書いたりしてきました。もちろん誰にでもわかるようにするのは難しいので,いつもは自分と同じくらいの年代の人,を想定して書いています。でも,今の感じだと誰にでも読みやすいんじゃないかな,とも思っています。自画自賛かもしれませんね。

     なんでそういう風にしているかというと,やっぱりちゃんと伝わらないと困るからです。コレは僕に限った話ではなくて,何かを書いたり話したりするとき,っていうのは「なにか伝えたいこと」が絶対に存在するはずです。それがなかったら,そもそも書く必要はありませんもんね。
     ときどき「こんな文章は自己満足なんだから,俺は自分の好きなように書く。読み手のことなんて知ったことか!」みたいな人も見ますけど,やっぱり色んな人が読んでくれて,自分の発信したいことをなるべくそのまま受け取ってくれる,っていうのは嬉しいことだと思います。
     なんか教科書とか専門書とか,明らかに読者が限定されている場合ならアレコレ難しく書いてもいいでしょう。でもこうやって誰でも見られるようにインターネット上に公開するかぎりは,誰でも受け取れるようにしよう,と思っています。読んでくれる人がいてこそ,のものですから。

     ここまで考えて,でも間違って伝わってたらどうしよう?とも考えました。どれだけわかりやすく書いたところで,間違って受け取ってしまう人は何人かはいそうですよね。
     今のところはそれをどうすればいいかはよくわかりません。そもそも,こんな辺境のブログでは,批判も糾弾も受けることはほとんどありません。「なんかわけわかんないこと書いてるなあ」くらいのものでしょう。実際に正しく伝わっているかどうか,知りようがないんですね。
     自分が本当に伝えたかったこととは違う解釈のされかたをしてしまって,間違った風にとられてしまう。こういうことは意外と最近の世の中ではたくさんあるようです。必ずしも発信したことがすべてそのまま伝えられるわけではありませんからね。
     でも,それも仕方ないのかな,とも思うんです。それはやっぱり解釈の自由に依存してしまう。やっぱり書いた瞬間に,その文章は自分の手を少しだけ,ふわりと浮いていってしまう感じはしています。自信を持って公開したのなら後は,そのポテンシャルを信じるのみです。
     さっき「なにか伝えたいこと」があるから文章を書いたり,何かを発信したりするのだ,と書きました。でも,それは作者から一意的に定められるものではなさそうです。一見すると一方通行のように見える,こういう文章でも,やっぱり僕は相互作用がある,と思いたいです。
     なんとかがんばって「なにか伝えたいこと」を文章にする。でもそれは大抵の場合はうまくいかなくて,全部を伝えることはできないですよね。そこから自分について,伝えたかったことについて,新しく発見する。せっかく普通の本と違って,ちょっとくらいは書き手と読み手の距離が近いので,そういうことをして,成長していけたらいいな,とも思います。僕なんてまだまだアマチュアのアマチュアみたいなものですからね。
     なかなか自分の文章に対するフィードバックが得られないのが歯がゆい毎日ですが,基本的にはTwitterで140文字で言っていることをふくらませているだけです。だからもらえる反応もたぶん似たようなことなのでしょう。

     毎日ブログを更新するぞ!と8月病(そんなものがあるとすれば)で意気込んでみましたが,やっぱりコレだというネタがないときにひねり出して書くと,自分なりにもあんまりいいものができた感じはしませんね。
     そんな中途半端なものを公開するなよ,って怒られそうなものでもありますが,せっかく書き上がってしまったものは仕方ないですね,ごめんなさい。これでも読み手のことを考えて,なるべく面白いものを書こう,とは思っているつもりなのですが。
     なにかを書いていると,その途中に「ああコレも書こう」とか「実はコレについては書けないんじゃない?」って思うことが多くて大変です。
     この夏が終わった後に見返して,少しはおもしろいものができるんでしょうか。