だれのためになにをつくるのか
Webエンジニアとしてのアルバイト
さて,ここには書かなかったのですが,Webエンジニアとしてアルバイトを始めてからそろそろ1年くらいになります。なんだかんだ3つの会社を渡り歩いて来て,色々と思うこともありました。1つ目は大手IT企業を脱サラした2人が立ち上げたガチガチのスタートアップベンチャーで,2つ目は社員50人くらいのそろそろミドルに行きたいベンチャー企業,3つ目は社員数400人くらいのメガベンチャーでした。
ぼくがしていた仕事は,ちょっとむずかしく言うと「バックエンドWebエンジニア」という役割です。ものすごく大ざっぱに言うと,Webページの見た目を作るのではなくて,ユーザーごとに異なる動作をするとか,データベースを操作するとか,そういう「裏側」を作る人のことですね。 具体的にぼくがどんな仕事をしていたかというのは今回ほとんど関係がないので,まあそんな仕事もあるんだなくらいに思っておいてもらえば問題はないです。
今回はこのあたりにからめて なにかをつくるとはどういうことか ということを書こうと思います。
マニュアルを読めば
1つ目の会社で作っていたWebアプリは,主に官公庁や古くからある企業むけのものでした。基本的には「今まで紙ベースで行なっていたものをWebベースにしよう」という姿勢のもので,具体的には業務支援サービスや勤怠管理システムのことを示します。 そこでは ユーザーのことを考える ということは,残念ながらほとんどありませんでした。 「どうすれば使いやすいか」を考える暇があるならマニュアルを書けばいい といったような感じで,悪く言えば殿様商売といったところですね。
ここから先はぼくの邪推だけれど,開発者とユーザーの間にはこういう心理があるのだと思っています。
- 開発者
- どういう風に使っても案件が決まってしまえば使ってもらえる
- ユーザー
- どれだけ使いにくくても結局それを使うしかない
というもので,もう少し言い方を変えると,両方とも「天から降ってくる」ようなものだといえます。 ユーザーにとってそのサービスは, 天から降ってきたのだから仕方なく使うもの であるし,開発者にとってそれは 天から降ってきた案件なのだから最低限の仕様さえ満たしておけばよいもの でしかないということです。
こんな風に書くとSIerとか業務アプリといった業界を批判しているかのように見えるかもしれないけれど,そういうわけでもないのです。そこにコストをかける必要がないのであれば,そこにコストをかけないのはごく自然なことだからです。 そのシステムではそれは求められていない。
見たところ使いにくいなあ,と思っていたシステムではありましたが,それを使いやすくするためには時間もコストもかかります。まだまだ下っ端エンジニアだったぼくは「これはこういうものだ」と言い聞かせ,ひたすら上に言われた通りにプログラミングをしては,マニュアルを書いていました。 ほとんど「ログアウトボタンを押すとログアウトできます」なんてことが書かれたマニュアルを作らなければいけないことはそれなりに悲しくはあったのですが,そういう仕事なんだと思うしかありませんよね。学生アルバイトができることなんて,本当に微々たるものなのです。
新しい技術を取り入れていくべきか
その会社で使われる技術は,お世辞にもそこまで最新のものとはいえませんでした。ぼくはそこそこギークな人間で,はてなブックマークやらなんやらで「流行り」を追っかけるということが好きです。その会社ではその記事でもう時代遅れだと批判されているような技術やフレームワークがまだまだ現役でした。 そこにはバージョン管理という概念はなく,全員が本番サーバにターミナルからSSHでログインし,vimで直接ソースコードをいじるといったような環境です。
けれどこれも,それが必要とされていないから,変わることはないんですね。いわゆる「技術力が高い」と言われるITベンチャーなんかだと,最新の技術やフレームワークをどんどん取り入れていきます。
なるべく少人数でスピーディーに開発できるシステムを用いれば,人件費を下げることができます。どんどん効率化していかないと,競合するサービスに敵わないからですね。また頻繁な新機能の実装とテスト,セキュリティの維持,バグの修正,負荷対策などなど, 様々な問題をその高い技術力で解決していかなければいけません。
けれど,二回目になりますが,ぼくがかつて作っていた業務アプリケーションでは,そういうことは必要とされていなかったんです。いわゆる「作りきり」でお金もぽーんともらえるので,最新の技術を使う必要はないし,使われる場面も限られていますから,新機能が追加されることもほとんどありません。セキュリティだってお世辞にも強化されているとはいえませんでした。
まったく毛色の違う2つの会社で働いてわかったことは,結局 技術力は必要とされなければ高まらない ということでした。今となっては当たり前のように思えますが。新しい技術をどんどん取り入れていくことは,一見するとすばらしいことのようにも思えます。しかしそこにはドキュメントが少なかったり,開発できる人が少なかったり,導入コストが高かったり,色んな障壁も存在するのです。
なぜ技術が必要か
結局のところ技術力って「だれのため」のものなんでしょう。また「なんのため」にあるんでしょうか。 ぼくは結局それは 「ユーザーのため」であり,最終的には「エンジニアのため」 なんだと思っています。
エンジニアには大きく分けて2種類の人がいると思っています。技術が大好きって人と,ユーザーが大好きって人ですね。ぼくは残念ながら前者ではなくて,後者のエンジニアです。 じぶんの作ったものをなるべく多くの人が楽しく使ってくれたらうれしい。そういうエンジニアです。
結局そのために技術は必要なんです。 ユーザーに合わせて,速いスピードでプロダクトを評価,改善していって,どんどん使ってもらう。そういうことを繰り返していかないと,ユーザーに価値なんか提供できません。ユーザーから挙がってくる「ここは使いにくいな」とか「ここがもっとこうなるといいのに」ということを無視していたら, なるべく多くの人が楽しく使って くれることはないからです。
ぼくにとって技術は,ユーザーを喜ばせたいエンジニアのためにあるものだ,ということです。
なぜエンジニアなのか
ひとことに技術技術と言われるエンジニアがどんなことを考えているのか,一例としてなんとなくわかっていただけたんじゃないのかなと思います。
ぼくはエンジニアのすごいところ,おもしろいところは
少数の力で速いペースで世の中を良くすることができること
なんじゃないかなと思っています。医者とか政治家とか教師とかに比べて,圧倒的速いペースかつ,小規模のチームが世界に大きな影響を与えてきました。
これがぼくがエンジニアを選んだ理由でもあります。世の中にたくさん仕事はあるけれど,エンジニアならなるべく多くの人をなるべく早くハッピーにできる,と本気で考えているからです。
もちろん技術を使って仕事をする会社はたくさんあるのですが,やっぱり「なにか作ってだれかをしあわせにする」っていうことからは離れたくないな,といつも思っています。
予告みたいなもの
さて今回はいつも通りビジョンばかり書いて終わってしまいました。3つの会社を経験してきたことがあんまり活かせていないので,今後はそのことを書いたり,もう少し「はたらくとはどういうことか」ということを書けたらいいなと思っています。
数値化できないこと
ぴゅあだった頃の夏の話
専攻を語ってください
ぼくと大人と新幹線と
*1:「あの人たちは、私の知らない楽しみ方を、心から知っている」というのは、私にとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。
わかりやすい,はえらくない?
少し前に「わかりやすいは1番えらい」といった内容の記事を書いたのですけれど,やっぱりそういうわけでもないかもな,と思うことが最近多いので書きます。
ぼくはずっと「わかりやすいこと」が好きでした。そしてそれを目指してきました。わかりにくいと伝わらないし,誰も読んでくれないと思っていたからです。
じぶんの中に何か《伝えたいこと》があって,それを伝えるためになるべく「わかりやすく」する。ぼくにとって書くことやコミュニケーションはそういうものなのかなあ,なんて思っていました。
でも《わかりやすい》は1番えらいわけではない。最近は本当にそう思うのです。《わかりやすい》はひょっとしたらつまらないかもしれない。そうも思うのです。
「わかりやすい」はしばしば《具体的》であることと言い換えられます。《具体的》であれば,なるべく多くの人が簡単に理解できます。容易にイメージできるからですね。
一方で《具体的》の対照的な言葉である《抽象的》はしばしば「わかりにくい」ものだとされてしまう。簡単にはイメージできないし,じっくりと噛み締めないとわからないからです。
そして人間は「わかりにくい」ものや「わからない」ものが嫌いです。なぜならそれは「怖い」に直結してしまうからです。未来のことが「わからない」から「怖い」のかもしれません。お化けが怖い人も,お化けが「わからない」から「怖い」のかもしれません。
でもそうやって「わかりにくい」から逃げ続けていてもあんまりよくないのかな,とも思うのです。「わかりにくい」にしっかりと向き合うこと。これはものすごく大事なことだと思うのです。
そんなことを「あみめでぃあ*1」を書くうちに思い始めるようになりました。
くわしくは上の段落内でのリンクを見てくれると嬉しいのですが「あみめでぃあ」のテーマは「《概念》を語る」ということです。
《概念》というのはそれこそ《抽象的》であって,かなり「わかりにくい」ものでした。
ぼくもなんとか《概念》を書いてみたのですが,すごく難しかった。考えて考えて悩んで,でもそれでも向き合って,なんとか書けたくらいのものです。
あんまり自覚はしていなかったけれど,今は「ぼくは「わかりにくい」《抽象的》から逃げていたのかな」と思います。普段から色んなことを考えているつもりだったけれど,本当は考えていなかったのかもしれません。ものごとに対して「これはどういうことなのか」とか《本質》をとらえることから,逃げていたのかもしれません。
「あみめでぃあ」の編集長のらららぎさんが,ぼくの書く文章について以下のように言ってくれました。
確かにぐらふくんの文章は具体に富んでて分かりやすいので、具体における分かりやすさ(速効性=ラノベ的•はてなブログ的)の他に、抽象における分かりやすさ(遅効性=詩的•思索的)の使い分けもできるようになれば、より一層面白い文章が書けるようになると思いますよ。
これを言われた当初は「そんなことないだろう」と思っていました。けれどしばらくした今,たぶんそういうことなんだろうな,と思うのです。
「『わかりやすい』はえらい」というのは確かにそうなのですが,ぼくが求め身につけてきたのは即効性をもつ「わかりやすさ」だったのでしょう。
思えばぼくはずっと「わかりにくい」ものと戦ってきました。身近な例を挙げるとすればそれは数学です。数学というのは「数」という概念を扱う学問です。
概念を扱えるようになるのはものすごく難しいです。それは《抽象的》であって「わかりにくい」ものです。
けれどしっかり向き合い,訓練を重ねながら*2ぼくらは《概念》を獲得していくのです。はじめは「学校でやれと言われているから」とか「なんとなくおもしろそうな気がするから」とかそんなものかもしれません。けれど,ひとたび「概念を身につけた」あと,ぼくらの世界は広がっていたはずです。世界の見え方は少し,変わっていたはずです。
そんなことを「あみめでぃあ」に参加するうちに思うようになりました。《概念》や《抽象的》であることからは,きっと逃げてはならないのです。
もちろんそれが「よりよく生きるため」に必要であるから,ということもできるのですがそればかりではありません。《概念》や《抽象的》であるということは,ぼくらの世界を広げてくれるのです。そしてきっとそれは,ものすごく楽しい。
「あみめでぃあ」に参加することで,今までずっと向き合ってきた「書く」ということにも,ある種のブレイクスルーが生まれたように思います。
そして「あみめでぃあ」に参加する人たちは,本当の本当に「おもしろい」人たちばかりです。編集のちくわさん,らららぎさんをはじめとする人たちと,らららぎさんのシェアハウス「ヌーベル」で語り合うひとときは,本当に素晴らしいものです。
あの空間に行くたびに,ブログ記事が1つ書き上がるような気さえするのです。
そんなこんなで「書く」とか「文章」のことばかり書いてきたこのブログですが,こんどぼくの書いたものが実際に紙の本となって形になります。宣伝というわけではないですが,ぜひお手にとっていただけますように。
ぼくが「わかりにくい」ものに向きあおうと思えたように,あなたの「わかりにくい」ものに向き合うための手がかりが,ひょっとしたら転がっているかもしれません。
今度の5/4にある文学フリマで販売します。実際に文フリ会場までお越しいただいても,通販フォームに入力いただいてもいいですよ。
*1:参加している「みんなでしんがり思索隊」という共同ブログの方々でこんど出すゆるふわ評論系同人誌。くわしくはリンク先のWebサイトをご覧ください。
*2:いわゆる演習というやつをくり返すことでしょうか。講義を聞くだけではわからない《概念》を頭の中に叩きこむことができます。
さらっとしたことを,さらっと書きたくて。
ぼくがブログという形で文章を書き始めてから,今年で7年になります。今あるブログは,記憶が正しければ3つめのブログです。それまでのブログには,思い出すとものすごく恥ずかしいことを書いてきました。「科学を使ってわかる日常の疑問」とか「社会情勢に対して思うこと」とか,はては「日常に起こったこと」とか,あらためて考えてみても「だれが見て楽しいと思うんだろう」と思えるものばかりです。
今も昔も《書く》とか《ブログ》とかいうことについてはよく考えてしまいます。「書く」ということはぼくの生活の中で少しずつ変わってくるものでした。ここらへんで「書く」ということを考えなおしてもいい頃だろうと思って,この文章を書きます。
書こう書こうと思って書けなかったこと,っていうのがぼくの生活には多く存在します。なにか日常にものすごい印象的なことがあって,これは文章で残しておかねばならない,と思うことが「書こう書こうと思ったこと」だといえます。でも,なぜだか書けない。そういうよくわからないスパイラルにがんじがらめになってしまいます。
書こう書こうと思った《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損ないたくない,そう思ってあれこれ書くのです。基本的に《日常でものすごい印象的なこと》っていうのはぼくにとって《わからないことがわかるようになった》であることが多いです。じぶんがわからなかったことがわかるようになって,世界がぱあっと晴れる感じ,といえるでしょうか。
でも《わからないこと》が《わかること》になるというプロセスは,他人に伝えるのがすごく難しいことです。それもそうですよね,だって今まで「わからなかった」んですから。
だから,文章を書くときにものすごい数の「準備」をしてしまうのです。メモを取ったり,何度も書きなおしたり,一晩置いてみたり,えとせとら。先に書いたように,これはすべて《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損なわずに伝えるためです。でもそれが果たして,なるべく損なわずに伝えるために有効な手段となっているか?ということも,最近はとても思うのです。
色々と「どう伝えようか」考えているうちに,そのときの「印象」は薄れていきます。それに伴って,伝えるための趣向を凝らす,という努力がめんどくさくなる。そして最後には,本当にそれが「印象的」であったのか疑わしくなる。そんなプロセスが,どうしてもやってきてしまうのです。
そんなこんなで,ぼくはずっとなにも書けない,という状態が続いてきてしまいました。
でも世の中には,ある程度の「文章をさらっと書く」人が存在するのです。ぼくはそれが昔から,ものすごくうらやましかった。じぶんはこんなに悩んで苦しんでいる文章を,なぜあんなにも「さらっと」書けてしまうのだろう,と。
年末と年始にかけて,何人かの《文章を書く人》に会ってきました。会うたびに「こうなりたいなあ」と思う像はどんどん増えていきました。
もちろんぼくが表面的な部分しか見ていないというのはじゅうぶんにあり得ます。「そう見える」だけで,その人も実はものすごく「悩んで」そして「苦しんで」文章を書いていたのかもしれません。
でもぼくはやっぱり「さらっと」書きたいのでした。
そうやって「どう文章と向き合うか」ということを考えていたときに出会ったのが,ちくわさんのAskでした。
だいたい公開した翌朝に後悔するものの、長い目で見て書かなきゃ良かったと思うことってあんまりないので、とりあえず続けているといったところです。
ーーーどうしてブログを続けているのだと思いますか? | ask.fm/chikuwa_
これを見た瞬間にぼくは「これだ!」と思ったのでした。こんなにも苦しんで悩んで何かを書くけれど,不思議と「書かなきゃ良かった」と思うことはあんまりない。これに尽きます。
わかりやすかったり,誰かに読まれたり,知識を得られたり,といった文章をめざすべきなのではないか,と思っていた時期もありました。でも「書かなきゃよかった」と思わない《じぶん》のために,文章を書くのもいいのかな,とも思えるようになりました。
「なぜ書くのか」とか「どうやって書くのか」というのに,なんらかの答えを出せるようになるには,きっと「書き続ける」しかないのでしょう。なぜだか不思議と「書きたくなく」はならないですからね。
幸いにも一定数の人たちには読んでもらえているようで,うれしい限りです。どうやらぼくが生きているかぎり,このようなブログは続きそうですから,ぜひお付き合いくださいな。
ひさしぶりに「さらっとしたこと」を「さらっと」書こうと思いましたが,どうやら失敗してしまいました。相変わらず分量はものすごく増えていきます。うーん,試験前にこんなことをしている場合ではないんだけどなあ。