頭がぐるぐるするから
気づけば夏休みが終わってから3週間も経っていました。毎日ブログを更新するぞ,と意気込んでいたのにその意欲はどこかへ消えてしまって,結局今までのように適当なタイミングでブログを更新するだけ,となってしまいました。最終更新は8月9日なので,ざっと2ヶ月以上も更新していないことになります。
頭の中にもやもやしているものがあるとき,「書く」という作業はそれをぱあっと晴らしてくれる手段の1つであると思います。そんなわけで今,僕の頭のなかに溜まっているもやもやを少し晴らしてみようかな,と思います。
卑怯ながらも各トピックの最も重要な部分は隠してあります。ちょっとこうやってインターネット上に載っけるべきものではないからです。わかる界隈のわかる人がいればわかると思いますが,まあつまりそういうことなのです。
こころが悲しくなってしまう季節,と書いたように,最近はちょっとこころが悲しいです。色んな人に触れる中で,自分の価値観も少しずつ変わっていったようにも思えます。生き方はそれほどがらっとは変わらないけれど,少しずつ周りに合わせて変えていく,そんな感じがいちばんいいのかな,なんてことも思います。
やっぱり僕はもっと他人のために生きるべきでした。別に今まで自分のためにばかり生きていたわけではないのですが,やっぱりそう思ってしまいます。
そうは言っても,自分では他人のために生きているつもりが相手にとってはただの迷惑でしかなく,単なる自己満足にすぎなかった,ということもあり得ます。そういう危険性は常に考えておかないといけないな,と思うのです。
他人のためにみんなが生きる世界が幸せだとも思えません。でも,相手がどう思っているか,を常に考えて生きることがそれほど悪いこととも思わないのです。
ある考え方を手に入れたときに,世界の見え方がすっかり変わってしまうということはきっと何回もあると思います。それが自分の近くの人のものだとその驚きは相当なもので,自分の見えていた世界がすべての人にとって同じではない,ということに気づくことがあります。
自分の視野や考え方はものすごく狭いものだったんだ,と気づいたときにはもう遅くて,色んなことが手遅れであることが多いです。でもそれに気づいて,次の世界をより広い視野で受け入れていかなければいけないんですね。
他人のことを考えるのは大事だ,と書きました。でもこの文章はぜんぜん他人のことを考えて書いたものではありません。頭の中のもやもやをそのまま吐き出したといった感じです。
言ってみれば「心に移りゆくよしなし事を*、 そこはかとなく書きつく」ったということになりましょう。
こういうことこそTwitterでtweetすればいいのに,という人もいるだろうと思うのですが,それぞれの文章にはやっぱり微妙に関連がありますし,できればこれらの文章はまとまった状態で読んで欲しいと思います。
これが僕なりに最低限「他人について考えた」結果である,という風に結論づけることはたぶん少しばかり強引でしょう。
「ブログは公開するものである以上,読み手のことをいちばんに考えるべきである」というのはTwitterでも,このブログでも僕が何回も述べてきたことです。それは半分くらい守れてきましたが,きっと半分くらい守れてないでしょうね。
でもやっぱりこのブログのタイトルである「たいむかぷせる」という性質上こうして,わけもわからず悩んでいた軌跡を残しておくことはきっと重要であるのでしょう。
ひょっとしたらどこかにいるかもしれない誰かに役立つかもしれないことを願いながら,そんなことないだろうな,とも思いながら。
1人だけど1人じゃない時間
何度かTwitterにも書いたことだと思うんですけど,僕はカフェとか図書館で過ごすのが好きです。たとえばスターバックスに行くと,AppleのMacBookAirを広げてガシガシと作業している人を割と見かけますよね。スターバックスがMacBookの発表会会場なのかどうなのか,という話はここでは置いておいて,1人の時間の過ごし方の話をします。
僕は整理整頓が苦手です。家族と暮らしていたときは,一定期間おきに母親が「部屋を片付けよ」といったようなことを言ってくれました。その頃は部屋はまだまだなんとかなるレベルに保たれていたのですが,やっぱり一人暮らしを始めるとダメみたいですね,どんどん散らかっていっています。
定期的に誰かを家に呼ぶとか,自室の画像を撮ってアップロードするとか,なんらかのきっかけを作って部屋をキレイに保てばいいんでしょうけど,なかなかそういうわけにもいきませんよね。テスト期間には,まず必要なプリントや教科書を部屋の中から発掘することから始まってしまいますし,テスト期間に限りません,日常でも色んなものを探しています。
ああ,カフェとか図書館の話をするんでした。なんで自分はカフェとか図書館を利用するんだろう?と考えた結果,得られたのは「1人だけど1人じゃない時間」が欲しい,ってことなんじゃないかな,という結論でした。
もちろん僕も大学生ですし,大学生が無駄に大人の真似をしたがったり,自意識過剰であったりするのでしょう。今回の話ももしかしたらそういうものからきていて,「カフェで時間をすごす自分カッコいい」みたいな意味付けもできるのかもしれませんね。まあでもそんな話をしたら元も子もないので今回は上記のように強引に仮定します。もちろん少しはあるのかな,っていう気もしますけど。
「1人だけど1人じゃない時間」っていう表現は一見するとなんだかおかしいですね。1人なのか1人じゃないのか結局のところはどっちなの?って聞かれそうです。でもこう書いたのには実はちゃんと意味があるんですよ。
カフェとか図書館っていうのはパブリックな空間です。色んな人がやってきて過ごす場所ではあるけど,公共の場所なんですね。来ている人の何割かは1人の時間をすごしています。でも完全に自由気まま,傍若無人に振る舞えるか,というと公共の場所なので,そうはいかない,っていうことですね。
僕はなかなか集中力が続かず,すぐに遊んでしまいます。でも色々と考えた結果,カフェとか図書館がその乏しい集中力でなにかをしなければいけないとき,少しは助けとなってくれるということがわかりました。
他人の目,っていうのがどうやら僕を助けてくれるみたいです。家のように私的な空間では,マンガを読むとか,Twitterをするとか,ゲームするとか,そのやらなければいけないタスクを放り投げて時間をすごすための手段はいくらでもあります。でも,そういう空間で「誰かに見られて」いたら遊んではいけないなあ,っていう気になります。自分の周りで遊んでいる人なんて,ほとんどいませんからね。
自分の机とその周りは,自分専用の空間です。持ってきたものをばばっと広げて,1人の時間を楽しむことができます。でも,それは完全に1人ではなくて,常に誰かの視線にさらされている。そういう意味の「1人だけど1人じゃない時間」っていうお話でした。
もちろん考えてみると,他にもいくつか理由があるんです。
まず1つ目は,お金を払った,っていうのが動機づけになる,ということです。「わざわざお金を払ったのだから」とか自分に言い聞かせて,なんとかだらだら過ごさず,タスクに集中します。まあ逆に,そこまでしないとやる気にならない自分ってどうなの,とも思ってしまうのですが。
2つ目に「完全にそれに集中せざるをえない状況」がある,ということもいえますね。自宅や自室と違って,タスクとそれに必要なものだけを目や手の届く範囲に置いて,強制的に集中する環境を作り出せます。
3つ目を頑張ってひねり出すとするとやっぱり「適度なうるささ」でしょうか。なにかアイデアをひねり出すという創造的な活動のためには,多少さわがしくてうるさい環境がよい,みたいな論文をどっかで読んだような気がします[要出典]。
1人だけど1人じゃない時間,っていう題名で書き始めましたけど,書いていくうちになんだか「自分がカフェを利用する言い訳」みたいな文になってしまいましたね。
図書館の魅力にも触れようかな,とも思いました。でも図書館はやっぱり「本」や「静かな空間」などといった,特有の性質をたくさん持ちます。そのためここで総合的に書くのはやめました。
図書館については別に記事を設けて書きたいですね。夏はまだまだ長いですし,この夏は「読書の夏」にするのもいいかなあ,とも思うので。「本」とか「図書館」について書きたいことは,まだまだたくさんあるんですよ。
余談ですけど,この文章も実はカフェで書かれています。特にそうしようというつもりはないのですが,ドヤ顔でMacを広げて…ということをしてしまいました。
今ものすごく眠いです。でも無理やりカフェに入って,無駄にお金を払うことで記事が一本書けて,有意義(?)な時間を過ごすことができました。それが費用に見合うのか,数百円としてもたくさん行くと結構な負担になるのでは?という部分を考えだすと頭が痛いのでやめにします。
余談その2にもなるんですけど,やっぱり毎日ブログを更新し続けるのは難しいですね。どうしても書くことがそれほどたくさん生まれてくるわけじゃないですし,コレについて書こう!と思ったことが数日たって見なおしてみると,ただのゴミなトピックにしか見えない,というのはよくあることです。
少なくとも数日おきくらいには更新できたらいいなあ,とも思うのですが,夏休み最初の方でここまで甘えていていいものか。
そろそろ終わりたいのですが最後の余談をします。@_chikuwa_さんからのお誘いで,集団で書く?といった趣旨のブログに参加させていただきました。
ものは試し,ということで記事を1本書いた
あとからきっとわかるよ / 著者:開発室Graph - ch1|開発室Graph|みんなでしんがり思索隊
ので良ければご一読ください。個人的には結構うまく書けたかな,と思いますし,他の著者さんたちの記事も面白いですよ。これからちょびちょびと書いていくつもりです。なにかしらの「お題」が示されるとやっぱり書きやすいですね。
このブログにも「こういうことを書くと面白いよ」みたいなことを定期的に教えてくれる人または機械が現れないかなあ。
わかりやすいが1番えらい
わかりにくいものが多いなあ,なんてことを最近は思います。誰かを騙すとかなら(複雑なスマートフォンの料金設定とか)難しくするのもいいんでしょうけど,あんまり難しくしてもなあ,なんてことを思います。
少し前から,なにか文章を書いたり,人前で話したりするときは,なるべくわかりやすくしよう,というのを意識しています。どういう風にわかりやすくするかは今も明確に決まっているわけではありません。たとえば文章だったら,ひらがなや改行を増やしたり,難しい言い回しを避けたりしています。
コレを誰が読んでくれるのか?考えるのは大事なんだ,ということを色んなところで話したり書いたりしてきました。もちろん誰にでもわかるようにするのは難しいので,いつもは自分と同じくらいの年代の人,を想定して書いています。でも,今の感じだと誰にでも読みやすいんじゃないかな,とも思っています。自画自賛かもしれませんね。
なんでそういう風にしているかというと,やっぱりちゃんと伝わらないと困るからです。コレは僕に限った話ではなくて,何かを書いたり話したりするとき,っていうのは「なにか伝えたいこと」が絶対に存在するはずです。それがなかったら,そもそも書く必要はありませんもんね。
ときどき「こんな文章は自己満足なんだから,俺は自分の好きなように書く。読み手のことなんて知ったことか!」みたいな人も見ますけど,やっぱり色んな人が読んでくれて,自分の発信したいことをなるべくそのまま受け取ってくれる,っていうのは嬉しいことだと思います。
なんか教科書とか専門書とか,明らかに読者が限定されている場合ならアレコレ難しく書いてもいいでしょう。でもこうやって誰でも見られるようにインターネット上に公開するかぎりは,誰でも受け取れるようにしよう,と思っています。読んでくれる人がいてこそ,のものですから。
ここまで考えて,でも間違って伝わってたらどうしよう?とも考えました。どれだけわかりやすく書いたところで,間違って受け取ってしまう人は何人かはいそうですよね。
今のところはそれをどうすればいいかはよくわかりません。そもそも,こんな辺境のブログでは,批判も糾弾も受けることはほとんどありません。「なんかわけわかんないこと書いてるなあ」くらいのものでしょう。実際に正しく伝わっているかどうか,知りようがないんですね。
自分が本当に伝えたかったこととは違う解釈のされかたをしてしまって,間違った風にとられてしまう。こういうことは意外と最近の世の中ではたくさんあるようです。必ずしも発信したことがすべてそのまま伝えられるわけではありませんからね。
でも,それも仕方ないのかな,とも思うんです。それはやっぱり解釈の自由に依存してしまう。やっぱり書いた瞬間に,その文章は自分の手を少しだけ,ふわりと浮いていってしまう感じはしています。自信を持って公開したのなら後は,そのポテンシャルを信じるのみです。
さっき「なにか伝えたいこと」があるから文章を書いたり,何かを発信したりするのだ,と書きました。でも,それは作者から一意的に定められるものではなさそうです。一見すると一方通行のように見える,こういう文章でも,やっぱり僕は相互作用がある,と思いたいです。
なんとかがんばって「なにか伝えたいこと」を文章にする。でもそれは大抵の場合はうまくいかなくて,全部を伝えることはできないですよね。そこから自分について,伝えたかったことについて,新しく発見する。せっかく普通の本と違って,ちょっとくらいは書き手と読み手の距離が近いので,そういうことをして,成長していけたらいいな,とも思います。僕なんてまだまだアマチュアのアマチュアみたいなものですからね。
なかなか自分の文章に対するフィードバックが得られないのが歯がゆい毎日ですが,基本的にはTwitterで140文字で言っていることをふくらませているだけです。だからもらえる反応もたぶん似たようなことなのでしょう。
毎日ブログを更新するぞ!と8月病(そんなものがあるとすれば)で意気込んでみましたが,やっぱりコレだというネタがないときにひねり出して書くと,自分なりにもあんまりいいものができた感じはしませんね。
そんな中途半端なものを公開するなよ,って怒られそうなものでもありますが,せっかく書き上がってしまったものは仕方ないですね,ごめんなさい。これでも読み手のことを考えて,なるべく面白いものを書こう,とは思っているつもりなのですが。
なにかを書いていると,その途中に「ああコレも書こう」とか「実はコレについては書けないんじゃない?」って思うことが多くて大変です。
この夏が終わった後に見返して,少しはおもしろいものができるんでしょうか。
最高の夏を過ごすためには
夏休みになりました。実際には7/30から夏休みだったんですけど,まあ色々と一段落ついたのでちょっと何か書こうかなって思います。
大学生というのは人生でいうと最初で最後の夏休み期間だから,しっかり楽しんでおくように!みたいなものをときどき読みます。大学生の夏休みっていうのはそれの夏休み期間なのであって,きっと何事にも代えがたく楽しいのでしょうね。
夏休みが始まってから明日で1週間が経ちます。夏休み最初の週だけでもたくさんのことができました。挙げてみると,カラオケ,オール飲み,川遊び,麻雀などなど,余暇があったらやりたい!みたいなことのほとんどができたように思えます。
コレが大学生っぽい夏休み!なのかどうかはよくわかりませんけど,毎日楽しいし,きっとこういう時間の使い方もアリなのでしょう。
「意識高い」大学生であることがいいか悪いかについては,ここ最近だとたくさんの議論がありますね。なんで「意識高い」大学生を半ば冷笑したように見る人たちが一定数存在するのかは今もよくわかりません(僕がどっち側なのかもあんまりよくわかりませんけど)。
例えばインターンに行ったりとか,たくさんアルバイトをしたりとか,ボランティアをしたりとか,色んな夏の過ごし方があると思います。
社会に出るために,社会に出る前から色々と準備しておくことはおそらく必要なことなのでしょう。何事にも準備は必要であると言いますしね。でも,僕はやっぱりそれはあんまり早いうちからやらなくてもいいんじゃないかな,とも思うんです。
結論から言うと,この夏はまだまだモラトリアム期間として過ごすことにしました。もちろん僕は諸事情からアカデミックな世界で生きていくことをやめるつもりなので,社会に出て普通にサラリーをもらって生きていくことになるでしょう。だから社会人になるための練習は必要であるようにも思えます。
(ここからはきっと意識高い(笑)の話が続きますが)
でも,やっぱり考えなおしてみて,普通の大学生がやっていることをあんまりしたくはないです。上に挙げたような夏の過ごし方はやっぱりほとんどの大学生が考えつきそうなもので,そうやっては過ごしたくない。最近はそう思っています。
お金のことを考えず,自分の興味関心の赴くままにやりたいことだけやっていられる今の毎日に感謝はするべきなのでしょう。今は色んなことをつまみ食いし続ける毎日です。
Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
とJobsも言っていたことですし。まあラフに要約すると「今やっっていることが未来でつながると信じなければならない」「この方法が間違っていたことはないし,私の人生を変えた」といったところでしょうか。
普通の人になりたくない,っていうのが割とずっと僕の中でありました。中学生くらいに思い始めたことであって,たぶんコレを今言うと厨二病(笑)であったり意識高い(笑)であったりと各方面から冷笑を買うんでしょうけど,やっぱりそう思ってしまいます。
夏休みの最後の日に,それほど悪くなかったなあと思える夏休みだったらいいかな,と思います。
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Web上に公開するからには絶対に読み手の事を真っ先に考えて,読む人が楽しい文章を書くのが最も重要である,とはずっと思っています。
でも今回の文章を読むと,完全に日記というか,自分の決意というだけであって,傍から見ても全くおもしろくはありませんね。誰が楽しいのかといえば,せいぜいいるかどうかわからない僕のファンくらいなものです。
同時にこの夏には,可能な限り毎日ブログを更新していくことにしました。やっぱり文章を書くチカラを伸ばしていきたい,というのが最近の毎日の目標のなかでは大きいような気がするのです。
書くチカラを伸ばすにはやっぱり,書くしかないでしょう。しかもチラシの裏に書くのではなく,誰か読み手のことを考えて,きちんとWeb上に公開しなければダメだと思うのです。
きっとこのコンテンツは有限なネットワークにおいてゴミのような役割しか果たさないだろうし,コレが将来的に黒歴史になることなんてわかりきった未来なんでしょうけど,もう少しお付き合いくださると嬉しいです。
次回からは独りよがりな文章をやめて,もう少し読み手の視点に立ったものを書いていけたら,と思います。
インターネットが狭くなってしまった
こういう話をすると懐古厨って言われるような気がするのですが,今回は僕がTwitterを始めたころの話をしようと思います。あの頃とはTwitterの使われ方,自分の周りにいる人,などなどがどんどん変わってきて,生きにくくも生きやすくもなってきました。僕がTwitterをはじめてから4.5年くらい経ちました。暮らしのほとんどをTwitterと一緒にいるので,そろそろ振り返ってみてもいい頃でしょう。
僕がTwitterをはじめた2009年の12月で,まわりでTwitterをやっている人はほとんどいませんでした。その頃Twitterは「ミニブログ」とか「マイクロブログ」と呼ばれていて,ああやっぱりこれは新しい分野なんだなあ,と思った記憶があります。なんで始めたのかはあんまり覚えていませんけど,「マイクロブログ」と聞いたからだったと思います。その頃にも今思うと頭を抱えたくなるような(もう消してしまいましたけど)ブログを開設していて,もっと気軽に更新できればいいなあ,くらいに思っていたんだったかと思います。今だとそんな言い方をすることはほとんどなくて,もう「Twitter」という分野が確立してしまいましたよね。
今のように,仲間を見つけるための機能はそれほど発達しているわけではありませんでした。なるべくなら自分と似通っている人を探したいんですけど,そのための手段がありません。自分が興味を持っている言葉で検索して,出てきた人をフォローしたり,「#followme」や「#followmeJP」なんていうハッシュタグが使われていたりと,広いインターネットという世界で仲間を探す,みたいにわくわくした覚えがあります。今調べてみると,公式RTの日本での実装が2010年1月22日ですから,僕が始めた頃に公式RTはなかったんですね。
Twitterを始めてから,色んな人に出会いました。はじめの頃は,起業家や主婦,プログラマや弁護士の方など,普通に生きていたら出会わないだろうなあという人たちとたくさん出会えて楽しかったのを覚えています。僕が自分とは違う人生を送っている人に興味をもつように,彼らも僕に興味を持ってくれていたのでしょう(自意識過剰なのかもしれませんけど)。
「自分の生活に興味を持ってくれている」とか「自分の存在を楽しんでくれている」顔も知らない人が画面の向こう側にいる,というのは,自己承認欲求をこじらせた高校生の僕にとっては,とてつもなく面白いものとなっていました。ちょうどその頃は高校で勉強や人間関係がうまく行かなかった頃で,無意識のうちに逃げ道だったり第二の世界だったりを探していたのでしょう。少なくとも,同年代ばかりの高校という閉じたコミュニティよりは広い世界です。
しばらくすると,同年代の仲間もたくさん見つかるようになりました。基本的には志望校を同じくする仲間がほとんどで,なんか色々とアカデミック(もちろん高校生なりに,ですけど)な話をしていたんだったかと思います。もちろんアカデミックな話以外もたくさんしましたね。いわゆる「ツイ廃」と呼ばれる人がたくさんいて,自分もそのひとりでした。日本中に自分の知り合いがいて,タイムラインという情報を共有して,回線を通して繋がっている。そういうのも,まさにインターネットという感じでわくわくしていたような気がします。
自らの日常を意味もなくtweetして,それに対して反応をもらって,みんなでわいわいする。そんな感じのものだったかと思います。しかもその人たちは日本全国にいる。各地での文化や考え方の違いに触れることも多かったです。大人数でSkype通話したこともありましたね。夏のオープンキャンパスでオフ会をしたことも印象に残っています。
その頃はまだまだスマートフォンは発達していなくて,僕もほとんどのtweetを携帯電話(今で言うところのガラケーですか)から行っていました。もちろんインターネット以外で知り合った人以外とのやりとりは携帯電話のキャリアメールが中心です。コレは前にも書いたことですけど,メールは手紙中心であり,何らかの明確な用事がないと相手には送りづらいものです。基本的には1対1のコミュニケーションですしね。対してTwitterはそうではありません。形容するならば1対多数か,多数対1といったところでしょうか。特定の相手に向けているわけではないメッセージに,何人かが反応してくれる.そういうものであったのでした。
でも今だとたぶん多くの人は,さっき僕が示したような使い方はしていないと思います。もちろん,僕が最初のアカウントでフォローしている人はそうではない人が多いんですが,日常生活の延長,みたいになっている人が多くなりました。簡単に個人を特定できるプロフィールを書いて,仲間内の延長,みたいなことをTwitterでやっている。まあ別にそれが悪いことってわけじゃないんですけど。
アカウントを分けるのは甘え,みたいに思っている時期が僕にもありました。謎の意地でアカウントを長い間分けてこなかったのですが,ついに屈してしまって,サークル用アカウントを作ってしまいました。tweet内容があまりにも狭いコミュニティの中で閉じていることばかりで,色んな人がフォローしてくれているいわゆる「本垢」のTLでは不適切なのかな,と思ったからです。
24時間同じ人たちとつながっていることは果たして幸せなんでしょうか?とも最近は思います。実際に会わないのに,インターネットを通して24時間つながってしまっていて,そこでも馴れ合いをし続けている。コレは前にも書いたことですけど,メール以前のコミュニケーション手段が「明確にその相手がいる」ことに対して,Twitterはそうではないですからね。構ってほしかったら,誰かが構ってくれます。
ほとんどが顔見知りの中で構成されるコミュニティであって,新しい人が追加されるとしてもそれは,実際に会った人であることが多いです。ちょっとその気になれば会いにいける人たちばっかりで,それ以上広がることはあまりない。
でもやっぱり24時間つながらざるをえない,そういうシチュエーションにはなってしまっているんじゃないかなとは思います。だれかの適当な一言で,そのTLにいる人達が一斉に反応して,連鎖的にその話題が続いていくという「流れ」にはやっぱり参加したい,と思ってしまうものです。それに,なにかどこかへ行く企画が立ち上がっていたのに,Twitterをやらないことによって乗り遅れてしまった,というのを恐れる人は結構いそうです。
そんな感じでインターネットは狭くなってしまった,と書きつつも,Twitterが狭くなってしまった話をしてしまいました。やっぱり,そろそろ色んな人がTwitterをやりすぎて,わざわざ仲間を探しに行かなくても,狭い世界の中で楽しめるようになってしまった,っていうのはありそうですね。
それが幸せなのかどうなのか,あんまりわかりませんけど。
他人を知ること
他人の考えを知ることは色んなところで便利であるようです。便利であるというよりも,必須であると言ったほうが正しいのかもしれませんね。途方も無いくらいコミュニケーション力が重視されてしまうこの世の中ではきっと,それも仕方ないことです。コミュニケーションは日本語にむりやり訳すならば「意思伝達」と言ったところで,自分の考えを一方的に伝えるものではありませんから,相手の出方をみて自分自身の行動に反映させていくという過程がどうしても必要になってきてしまいます。
意識していないことなのですが,ふだん一緒にいる人たちとは,時間をかけてその人の考え方を知り,その人の考え方の行動への表れ方もなんとなくわかってくるので,あまり問題はありません。去年はあんまり意識してこなかったのですが,今年はせっかく色んな新しい出会いもあったので,その辺のことをちょこっとだけ思い出して書いてみようかな,と思います。
「この人はこういう人である」というイメージをたぶん僕は初対面で作ってしまいますし,そういうイメージを無意識のうちにも作ってしまう人はそんなに少なくはないんじゃないかなといます。これはいわゆるステレオタイプというやつで,一度そういうものが構築されると,それ以降はその人のことをそれを元に判断してしまうそうです。
でもそのイメージはやっぱり崩れていくんですよね。僕もきっと「初対面の人用」の振る舞いというのを使ってしまっているはずです。それは僕にはじめて会う人でもきっと一緒なのでしょう。なかなか自分というのは変えられなくて,できることなら本当の自分を好きになってほしい。でもそれを初対面から見せるともしかしたら嫌われてしまうかも,そういう葛藤があるんだろうと思います。
「本当の自分」なんてものがあるのかないのかはわかりません。でもあんまり初対面の人になんでもかんでも見せられませんし,気の置けない友達に「君のコレはちょっとおかしいんじゃないかな」と言われたら,それを隠しておきたくもなりますよね。仲良くなって,その人が隠していたであろう一面を知ってそれで,もっとその人のことを知った気がする,より親密になれた気がする,というのは人間関係の構築の醍醐味の1つでもあると思うのですが。
僕たちは,人と付き合っていく中で,色んな人を好きになったり嫌いになったりします。でも,それは上述するところの「本当の自分」を見ていることになっているんでしょうか。たぶん,ほとんどの人が「偽りの自分」よりは「本当の自分」を好きになって欲しいはずです。なんでそうなってほしいかはパッと言うことはできませんが,僕が色んな人と接してきたり,色んなものを読んだりする中では,きっとそういうものであるような気がしています。
そんなわけで,ある人と色々と話して,その人について知る,ということを今回もしたんですけど,やっぱりすごく新鮮でした。自分にとっての「ふつう」がその人にとってはそうではなくて,きっとそれはその人も感じていたことなのでしょう。最初に思っていた,感じていた印象とはどんどん乖離していってしまったんですよね。話していくうちにお互いのことがわかっていって,それでもっとお互いに興味をもって,っていう風になっていけば良かったのかなあ,とは思うんですけどね。難しいです。
やっぱりこういうものも相互作用なのでしょう。一方的なのはあらゆるコミュニケーションにおいてあんまり好ましくないはずです。独りよがりに好奇心を行使し続けてしまっていても,相手からのレスポンスがないと結局は長続きしないですし,自分の好奇心の源泉のようなものが失われていくように思えます。もちろん,僕という人間がコミュニケーション大好き人間であるというのは原因の1つだとも思うのですが。
ただもちろん,対人間のコミュニケーションは静的なものではなくて,どんどん変わっていく動的なものです。それぞれの環境によって,どんどん変わっていくものでもあるはずなのです。それがいい方向なのか悪い方向なのかはわかりませんけどね。
プログラミングってなんだろう,を情報科から
正式に情報科に配属になりました.思っていたよりコマは埋まっていなくて,なんだか自分の勉強ができそうな反面,大学生ってこんなものなのかなあと同時に思う毎日でもあるのです.せっかく4月ですし,情報科学生にとってきっと欠かせない「プログラミング」が僕にとってどういう意味をもっていて,これからどういう意味を持っていくであろうか,ちょっと書いてみます.これも4月病の1つであるとは思うのですが.