専攻を語ってください
ぼくと大人と新幹線と
*1:「あの人たちは、私の知らない楽しみ方を、心から知っている」というのは、私にとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。
わかりやすい,はえらくない?
少し前に「わかりやすいは1番えらい」といった内容の記事を書いたのですけれど,やっぱりそういうわけでもないかもな,と思うことが最近多いので書きます。
ぼくはずっと「わかりやすいこと」が好きでした。そしてそれを目指してきました。わかりにくいと伝わらないし,誰も読んでくれないと思っていたからです。
じぶんの中に何か《伝えたいこと》があって,それを伝えるためになるべく「わかりやすく」する。ぼくにとって書くことやコミュニケーションはそういうものなのかなあ,なんて思っていました。
でも《わかりやすい》は1番えらいわけではない。最近は本当にそう思うのです。《わかりやすい》はひょっとしたらつまらないかもしれない。そうも思うのです。
「わかりやすい」はしばしば《具体的》であることと言い換えられます。《具体的》であれば,なるべく多くの人が簡単に理解できます。容易にイメージできるからですね。
一方で《具体的》の対照的な言葉である《抽象的》はしばしば「わかりにくい」ものだとされてしまう。簡単にはイメージできないし,じっくりと噛み締めないとわからないからです。
そして人間は「わかりにくい」ものや「わからない」ものが嫌いです。なぜならそれは「怖い」に直結してしまうからです。未来のことが「わからない」から「怖い」のかもしれません。お化けが怖い人も,お化けが「わからない」から「怖い」のかもしれません。
でもそうやって「わかりにくい」から逃げ続けていてもあんまりよくないのかな,とも思うのです。「わかりにくい」にしっかりと向き合うこと。これはものすごく大事なことだと思うのです。
そんなことを「あみめでぃあ*1」を書くうちに思い始めるようになりました。
くわしくは上の段落内でのリンクを見てくれると嬉しいのですが「あみめでぃあ」のテーマは「《概念》を語る」ということです。
《概念》というのはそれこそ《抽象的》であって,かなり「わかりにくい」ものでした。
ぼくもなんとか《概念》を書いてみたのですが,すごく難しかった。考えて考えて悩んで,でもそれでも向き合って,なんとか書けたくらいのものです。
あんまり自覚はしていなかったけれど,今は「ぼくは「わかりにくい」《抽象的》から逃げていたのかな」と思います。普段から色んなことを考えているつもりだったけれど,本当は考えていなかったのかもしれません。ものごとに対して「これはどういうことなのか」とか《本質》をとらえることから,逃げていたのかもしれません。
「あみめでぃあ」の編集長のらららぎさんが,ぼくの書く文章について以下のように言ってくれました。
確かにぐらふくんの文章は具体に富んでて分かりやすいので、具体における分かりやすさ(速効性=ラノベ的•はてなブログ的)の他に、抽象における分かりやすさ(遅効性=詩的•思索的)の使い分けもできるようになれば、より一層面白い文章が書けるようになると思いますよ。
これを言われた当初は「そんなことないだろう」と思っていました。けれどしばらくした今,たぶんそういうことなんだろうな,と思うのです。
「『わかりやすい』はえらい」というのは確かにそうなのですが,ぼくが求め身につけてきたのは即効性をもつ「わかりやすさ」だったのでしょう。
思えばぼくはずっと「わかりにくい」ものと戦ってきました。身近な例を挙げるとすればそれは数学です。数学というのは「数」という概念を扱う学問です。
概念を扱えるようになるのはものすごく難しいです。それは《抽象的》であって「わかりにくい」ものです。
けれどしっかり向き合い,訓練を重ねながら*2ぼくらは《概念》を獲得していくのです。はじめは「学校でやれと言われているから」とか「なんとなくおもしろそうな気がするから」とかそんなものかもしれません。けれど,ひとたび「概念を身につけた」あと,ぼくらの世界は広がっていたはずです。世界の見え方は少し,変わっていたはずです。
そんなことを「あみめでぃあ」に参加するうちに思うようになりました。《概念》や《抽象的》であることからは,きっと逃げてはならないのです。
もちろんそれが「よりよく生きるため」に必要であるから,ということもできるのですがそればかりではありません。《概念》や《抽象的》であるということは,ぼくらの世界を広げてくれるのです。そしてきっとそれは,ものすごく楽しい。
「あみめでぃあ」に参加することで,今までずっと向き合ってきた「書く」ということにも,ある種のブレイクスルーが生まれたように思います。
そして「あみめでぃあ」に参加する人たちは,本当の本当に「おもしろい」人たちばかりです。編集のちくわさん,らららぎさんをはじめとする人たちと,らららぎさんのシェアハウス「ヌーベル」で語り合うひとときは,本当に素晴らしいものです。
あの空間に行くたびに,ブログ記事が1つ書き上がるような気さえするのです。
そんなこんなで「書く」とか「文章」のことばかり書いてきたこのブログですが,こんどぼくの書いたものが実際に紙の本となって形になります。宣伝というわけではないですが,ぜひお手にとっていただけますように。
ぼくが「わかりにくい」ものに向きあおうと思えたように,あなたの「わかりにくい」ものに向き合うための手がかりが,ひょっとしたら転がっているかもしれません。
今度の5/4にある文学フリマで販売します。実際に文フリ会場までお越しいただいても,通販フォームに入力いただいてもいいですよ。
*1:参加している「みんなでしんがり思索隊」という共同ブログの方々でこんど出すゆるふわ評論系同人誌。くわしくはリンク先のWebサイトをご覧ください。
*2:いわゆる演習というやつをくり返すことでしょうか。講義を聞くだけではわからない《概念》を頭の中に叩きこむことができます。
さらっとしたことを,さらっと書きたくて。
ぼくがブログという形で文章を書き始めてから,今年で7年になります。今あるブログは,記憶が正しければ3つめのブログです。それまでのブログには,思い出すとものすごく恥ずかしいことを書いてきました。「科学を使ってわかる日常の疑問」とか「社会情勢に対して思うこと」とか,はては「日常に起こったこと」とか,あらためて考えてみても「だれが見て楽しいと思うんだろう」と思えるものばかりです。
今も昔も《書く》とか《ブログ》とかいうことについてはよく考えてしまいます。「書く」ということはぼくの生活の中で少しずつ変わってくるものでした。ここらへんで「書く」ということを考えなおしてもいい頃だろうと思って,この文章を書きます。
書こう書こうと思って書けなかったこと,っていうのがぼくの生活には多く存在します。なにか日常にものすごい印象的なことがあって,これは文章で残しておかねばならない,と思うことが「書こう書こうと思ったこと」だといえます。でも,なぜだか書けない。そういうよくわからないスパイラルにがんじがらめになってしまいます。
書こう書こうと思った《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損ないたくない,そう思ってあれこれ書くのです。基本的に《日常でものすごい印象的なこと》っていうのはぼくにとって《わからないことがわかるようになった》であることが多いです。じぶんがわからなかったことがわかるようになって,世界がぱあっと晴れる感じ,といえるでしょうか。
でも《わからないこと》が《わかること》になるというプロセスは,他人に伝えるのがすごく難しいことです。それもそうですよね,だって今まで「わからなかった」んですから。
だから,文章を書くときにものすごい数の「準備」をしてしまうのです。メモを取ったり,何度も書きなおしたり,一晩置いてみたり,えとせとら。先に書いたように,これはすべて《日常でものすごい印象的なこと》を,なるべく損なわずに伝えるためです。でもそれが果たして,なるべく損なわずに伝えるために有効な手段となっているか?ということも,最近はとても思うのです。
色々と「どう伝えようか」考えているうちに,そのときの「印象」は薄れていきます。それに伴って,伝えるための趣向を凝らす,という努力がめんどくさくなる。そして最後には,本当にそれが「印象的」であったのか疑わしくなる。そんなプロセスが,どうしてもやってきてしまうのです。
そんなこんなで,ぼくはずっとなにも書けない,という状態が続いてきてしまいました。
でも世の中には,ある程度の「文章をさらっと書く」人が存在するのです。ぼくはそれが昔から,ものすごくうらやましかった。じぶんはこんなに悩んで苦しんでいる文章を,なぜあんなにも「さらっと」書けてしまうのだろう,と。
年末と年始にかけて,何人かの《文章を書く人》に会ってきました。会うたびに「こうなりたいなあ」と思う像はどんどん増えていきました。
もちろんぼくが表面的な部分しか見ていないというのはじゅうぶんにあり得ます。「そう見える」だけで,その人も実はものすごく「悩んで」そして「苦しんで」文章を書いていたのかもしれません。
でもぼくはやっぱり「さらっと」書きたいのでした。
そうやって「どう文章と向き合うか」ということを考えていたときに出会ったのが,ちくわさんのAskでした。
だいたい公開した翌朝に後悔するものの、長い目で見て書かなきゃ良かったと思うことってあんまりないので、とりあえず続けているといったところです。
ーーーどうしてブログを続けているのだと思いますか? | ask.fm/chikuwa_
これを見た瞬間にぼくは「これだ!」と思ったのでした。こんなにも苦しんで悩んで何かを書くけれど,不思議と「書かなきゃ良かった」と思うことはあんまりない。これに尽きます。
わかりやすかったり,誰かに読まれたり,知識を得られたり,といった文章をめざすべきなのではないか,と思っていた時期もありました。でも「書かなきゃよかった」と思わない《じぶん》のために,文章を書くのもいいのかな,とも思えるようになりました。
「なぜ書くのか」とか「どうやって書くのか」というのに,なんらかの答えを出せるようになるには,きっと「書き続ける」しかないのでしょう。なぜだか不思議と「書きたくなく」はならないですからね。
幸いにも一定数の人たちには読んでもらえているようで,うれしい限りです。どうやらぼくが生きているかぎり,このようなブログは続きそうですから,ぜひお付き合いくださいな。
ひさしぶりに「さらっとしたこと」を「さらっと」書こうと思いましたが,どうやら失敗してしまいました。相変わらず分量はものすごく増えていきます。うーん,試験前にこんなことをしている場合ではないんだけどなあ。
あなたにとって「大晦日」は特別ですか。
ぼくと「しんがり」のこと
実験のアルバイトをした話
木曜日は疲れたじぶんを癒やすために全休にしています。でも割と毎週水曜日にぐだぐだと夜更かしをして昼ごろに起き,特に何も生産性のないまま貴重な休みは失われていきます。
休みなんだからぐだぐだと消費して休んじゃえばいいじゃないか,とも思います。でもやっぱり何をするにもお金はかかります。こうして堕落しているとあとで何らかの痛い目を見そうなので,ちょっとばかり働いて活動資金の足しにしようと思い,単発のアルバイトをすることにしました。
うちの大学は少しおもしろいシステムがあります。大学の学生用のWebページに「学内のアルバイト」という項目があって,学生向けにアルバイトを紹介してくれるのです。その中に「1日で終了する」といったものがあり,今回のアルバイトはそこに掲載されていたものでした。
そのうちのほとんどは「研究や調査に使用するための実験の被験者」というものです。ほぼすべてのものが学部が正式に行う実験なので怪しいといったこともありません。今回行ったものは経済学に関するもので,実際にコンピュータで完全に匿名が保たれた参加者間の取引(ゲーム形式ですね)をするというものでした。そのゲームの結果に応じて報酬が変動します。
この実験はこれからも継続して行われるそうなので,詳細がわかってしまうようなこと(いわゆるネタバレ)は避けなければなりません。でもかなりおもしろかったので,なんとか隠しつつおもしろさが伝わるように書ければいいなと思います。
(わかる人がどれくらいいるか不明ですが)一言で言ってしまうと「ライアーゲームをしてお金を稼ぐ」というものです。経済学の実験とはいっても,やることはギャンブルに似ています。元手はなく,必ずプラス収支で帰ることができますが。
ギャンブルかつ,参加者間の取引がありますから,しっかり考えないと負けてしまいます。なるべく負けたくありませんから,なんとか相手をあざむいたり,裏をかいたり,先を読んだりして自分の利益の最大化につとめていきますよね。
この手のゲームは「お互いが信用しあっていれば最も(あるいはある程度は)利益を得ることができる」というものがほとんどです。
でも頭ではわかっていても実際にやるのは難しいな,ということを実感する1日でした。「みんなが同じくらいしあわせ」がきっと理想的な姿であるはずなのにもかかわらず,です。ゼロサムゲーム*1ではないため,誰かが得をして誰かが損をすることもあり得ないのに。
もちろんそうなる努力はしました。でも「これでいい感じのところに落ち着いたかな?」と思っても誰かが結局「自分だけが儲ける」という張り方をしてしまいます。結局のところこれが人間というものであり,色々な取引の難しさなのかなあ,なんてことを思いました。
結果的に僕は時給に換算するとそこそこの金額を得ることができましたが,果たしてコレでいいのかなあとも思います。もちろんお金をたくさんもらえれば嬉しいのです。でも匿名同士でやりとりして,騙したり騙されたりして,お金がもらえてラッキーというのはやはり少し気持ちが悪い感じもしてしまいました。
実は今日はもう1つ単発のアルバイトをしました。それについても少しばかり書いておくことにいたしましょう。これは別にそんなにおもしろいことがあるわけではないのですが。
もう1つのアルバイトは「英語の教材をつくる参考にする」ためのアルバイトでした。僕は英語が好きですし,英語で話したり読んだりするだけでお金がもらえるならいいかな,と思って軽い気持ちで応募しました。
実際に指定された集合場所に行くと,なにやらスタジオのようなところに通されました。マイクとPCとタブレットだけが置いてあってびっくりです。
どうやら「タブレットに指示されたことを喋ったり書いたりする」というもののようです。はじめにSpeaking,そのあとWritingという感じで進みます。
1つめのセクションでは,宮沢賢治の「北風と太陽」や「オオカミ少年」といった文章の日本語のもの,英訳されたものを交互に読まされました。係員の人がスタジオに出たり入ったりして合図を与えてくれ,その通りに読んでいきます。
1つめのセクションはただ読むだけですからそれほど苦労はなかったのですが,問題はそれ以降でした。タブレットに表示される絵を説明したり,自分の意見を述べたりするものだったのです。
「ただ書かれているものを読む」のと「考えながら読む」ことは大きく違います。言葉では言いにくいこと,うまい表現が出てこないこと,自分のちょっとしたミスに気づくこと,などなど色々ありました。というか恥ずかしかった。これに尽きますね。
最後は制限時間15分でお題に合わせて英語で書くことを要求されました。意見を述べる,というものでこれがなかなかつらかったです。こういうものを書いていると某大学の自由英作文を思い出しましたがまさにそんな感じです。書いているうちに整合性が取れなくなって大変でした。
でもまあ,いい経験にはなったかなと思います。とても楽しかった。
今回はいつもと違い,日記のように書いてみました。いつもはまずなんらかの「言いたいこと」を用意して,それに合わせるために色々な話をつくっていきます。
でも今回はあったことをただだらだらと綴るだけでした。書き手にとってはものすごく書きやすくて楽なのですが,読む人にとってはおもしろいものができているかどうかかなり不安でもあります。
「あなたに興味がある人は実はとても少ない」ということはどこかでだれかが述べていたことです。それはきっとそうで,僕の日常に興味がある人なんてほとんどいないことでしょう。
「自分のためにブログを書く」のか「読んでくれる人のためにブログを書く」のかどうなのか。ということにきっと僕は永遠に悩み続けることになるでしょう。もちろんコレにはまだ答えは出ていませんが,今回は割と「自分のため」に文章を書いたつもりです。後から読んだときに「ああ,こんなこともあったなあ」と感じるためのなにか,という感じ。
最近はいろいろとつらいことも多いですが,文章を書くことで少しだけすっきりしたようにも思えます。
今回の実験で僕が生み出したデータが,さまざまな形で世の中の役に立っていたらいいなあ,なんて思いました。
*1:ゲームの理論で,参加者それぞれの選択する行動が何であれ,各参加者の得失点の総和がゼロになるゲーム。零和ゲーム。